without Apology

 恋人の淹れるコーヒーが美味しい。それはこの世界で幸せな事柄ランキングを作ったとしたら割と上位に食い込むであろう素晴らしき事実であり、誰にも譲り渡すつもりがない。高校を卒業してから漫然と美容専門学校に進み、しかし結局美容師にはならずベーシストとしての音楽活動を継続し、生計を立てるべくフリーターとなった私の恋人は、その長きに渡るフリーター生活の大半を純喫茶に捧げている。パリッと糊の効いたシャツを身に纏い、背筋を伸ばし、慣れた手つきで豆を挽き、立ち上る湯気の向こうで満足げに口元を緩ませる恋人の姿は私の誇りであり、憧れでもあった。
 私たちの出会いのきっかけとなった煙草を彼女が嗜まないのは、コーヒーの風味がわからなくなるからだ。そう言っていたから、私も二人で暮らす室内で煙草を吸うのをやめた。邪魔をしないように。せめて毎朝、美味しいコーヒーを淹れてもらえるように。
 私が彼女にねだるのなんてそれくらいだ。私は彼女のためならなんだってするし、甘やかしたくて堪らなかった。いつ野良猫のように気高い彼女が私の手元を離れてしまうかと考えたら、不安を誤魔化すように抱き合うしかなかった。私たちはいつも相手に色々なものを求める。愛して、そばにいて、明日の朝も私にコーヒーを淹れて欲しい。お金を取れるプロの仕事を、惜しみなく私に捧げてくれる彼女の深い愛に、人知れぬ優越感を覚えていなかったといえば嘘になる。
 謝る言葉を探していた。昨日夜遅く帰って、連絡をよこさなかったことを窘められて、仕事に疲弊しきって余裕のなかった私が随分ひどい言葉を吐いたから。分かり合えなくて言い争ってしまったから。エネルギッシュに方言を飛び交わせて、ほとぼりが冷めずに別々の部屋で寝たから。宥めるように抱きつこうとした手を払いのけたから。もう出て行くと、嘘で塗り固めた強がりの啖呵を切ったから。
 列挙するとあまりに自分がつまらなく見えて泣きそうになった。初音はやんわりと、しかし二の句を継がせない強さで言った。
「ええよ、もう」
 初音は呆れ顔で私の前にコーヒーを置く。いつもよりいい豆。何かあった時にこっそり使う、職場の社員割で買った豆を贅沢に使って淹れたコーヒーである。私は黙って出されたまま口につけて、ホッと息を吐いて、ごめん、とまた重ねた。雑味も酸味も一切ない、高いんだなと舌が納得する味だった。涙が出そう。美味しくて泣くなんて、10代の女の子みたいだ。なんて感受性をしてるんだ、私。
「じゃけえ、もうええて」
「……怒ってるじゃん」
「怒っとる時に謝られるんて逆効果じゃ思わん?」
「でも謝られんでもそれはそれで腹たつが」
「多喜の不服そうな顔見とると、しょうがねえけ、謝ったろか、て聞こえるみたいなが」
「そんなこと思ってないんですけど」
 初音の軽口は無表情で少し怖い。昨日は散々、このドスの効いた声に泣いたものだ。今も少し怒気が篭っていて、謝られても価値がないみたいに言われて、さすがに傷つきそうだった。
 揺れた視界の向こうで硬く引き結ばれた口。この人、どんな顔してこの美味しいコーヒーを淹れたんだろう。きっと仕事中はできない物騒な面持ちで、でも私のことを考えながら丁寧に淹れたはずだ。
「あんた昔から謝るん下手じゃったよ。怒られて、教師に噛み付いとるん何遍も見たもの」
「あれはほら……理不尽に怒ってくるおっさんらが悪いんじゃがん」
「御しやすそうに見えてギャンギャン噛み付くけえ、おっさんら豆鉄砲食らった鳩みたいな顔しとったね」
 初音は昔話をしながら鼻を鳴らした。ふっと、息を抜くようにして鼻で笑うのは、彼女の癖だ。怒ったり笑ったり、何か感情が動いた時のしるし。私はマグカップを片手で持ち、もう片方の空いた手で初音の手に触れた。テーブルの上に投げ出されたベーシストの骨ばった手。女のひとにしてはとても大きな、そしてとても温かな、冷え性とは無縁の癒しの手だった。
 初音はしばらく私の指先が掠めるまま、おとなしく何の動きも見せなかったけど、つう、と指と指の間をなぞるとやんわり握り返してきた。
「冷や」
「あったかい」
「マグカップ持っとれ」
「ひど。あっためてよ」
「嫌じゃ。あんたは薄情なけぇ、手が冷えるんじゃ」
「初音は温情の塊だから手があったかいのね。だからあっためて」
「その温情に泥かけてから。一生許したらん」
 初音はそう言いながら私の手を口元まで運び、薄い唇をそっと押し当てた。いつでもそうしてほしくて、爪の甘皮もムダ毛も処理して、手専門のモデルでもここまではしないという勢いで完璧に手入れをしている。冬の朝の乾燥した薄い唇が、同じく乾燥した手をそっと撫でていく。指先よりも硬いのに、その僅かな薄皮のささくれが心を引っ掻くようで、ゾクゾクした。
 寝起きで、ノーメイクで、眉もなくて、服装だって適当で。目の下に慢性的なクマがうっすらとできていて、笑顔だって浮かべてくれなくて。そんな美とは対極にいるような恋人の、僅かに灯った欲の炎を見逃さないようになってしまった私は、もう、一生彼女に許されなくても仕方ないのかもしれない。
「あつい」
「冷える言うてみたり、熱い言うてみたり……」
「初音さあ……ほんっと私のこと好きだよね」
「何を今更。いちいち好きとか愛してるとか言葉にせんとわからんもんか?」
「皮肉だって好きな人にしか吐かないよね」
「嫌いな奴に脳みそ使うて嫌味言うのアホらしかろ」
「初音っぽい。大好き」
「……甘い」
 好きだと告げると機嫌が良くなる。私の恋人はそういう人だ。好きだ、と告げられる頃には、私も彼女もだいたい機嫌を直している。仲直り、と言えるのかもしれない。好きだとわかっていて、お互いにそうだとわかっていて、言葉にする時ほど甘美なものはない。朝から自分のために淹れてくれるコーヒーと同じくらいに幸せな事柄。
「好き好き言うたら言うこと聞くって思っとるじゃろ」
「好きだよー。世界でいちばん」
「変わっとるなあ、あんたもあたしも」
「初音も私のこと好きなの?」
「それ答えたら今日の予定ぜんぶ狂うけどええ?」
「嫌だ。買い物行きたい。デートするって言った」
 初音は漸く笑った。約束だったのだ。今日は久々にお互いの休みが被ったから、買い物をして映画を見て、海辺のライブレストランでジャズを聴きながらご飯を食べて、行く宛てもなく車を走らせてヘトヘトになるまでデートをすると決めていた。
 喧嘩をしたまま出かけるデートは最悪。だから、その前に仲直りできてよかった。
 喧嘩をするのはしたくてしてるわけじゃないけど、この氷漬けにされたような言葉にしがたいほどの寂しさ、辛さ、心の磨耗を一瞬で立ち直らせる仲直りの瞬間はなかなか癖になる。
 前の瞬間より初音のことを好きになる。心が迷子になりそうなほど強く揺さぶられて、いとしさが募って、感情が五感を支配する。どうしようもない私を少しだけ褒めてあげたくなる。よく謝れたね、と。
「初音、コーヒー美味しい」
「さっさと飲んで。それであたしの手離して」
「やだ。死んでも離さない」
「あんたが言うと冗談に聞こえんわ」
 私の薬指に口づけを残して初音はそっと組んだ手を離した。離れるときに掠めるように撫でられた手のひら。びくん、と肩が震えるのを知っている。手だけで気持ちよくさせるなんて、変態にもほどがある。私の恋人……無欲そうな佇まいの中に、溢れんばかりの欲を飼いならしているのを、私はちゃんと知っている。
 私の恋人が淹れるコーヒーは美味しい。美味しくて、微かに恋人の香りがする。彼女を直接味わっているようで、毎朝煽られている。愛し合った朝も、啀み合った朝も、いつだって淹れてくれるコーヒーがあなたの何よりの謝罪で、独白で、愛の告白。私はちゃんと知っている。
END