砂糖は二匙

 子供の頃、街の外れに古いお屋敷があった。決して豪邸というわけではない、小ぢんまりとしたお屋敷だったけれど、花壇の花はいつもきれいに手入れされていて、住む人の趣味の良さをうかがわせていた。そこに暮らすおばあちゃんの元へ、私はよく遊びに行っていた。年を取っていたが、笑顔の上品な、きれいな人だったことはよく覚えている。おばあちゃん、と呼んではいたが、私と彼女に血の繋がりはない。ただ、「おばあちゃん」と呼ぶと、嬉しそうな優しい笑みを見せてくれるので、幼い私はいつもそう呼んでいた。
 私がおばあちゃんと知り合ったきっかけは、兄のおもちゃを直してもらったことだった。お屋敷の前の空き地――後で知ったが、そこもお屋敷の敷地だったらしい――で、ある時、兄が走らせていたブリキの車が、おかしな跳ね方をしてひっくり返った後、うんともすんとも動かなくなってしまったことがあった。そこへ声を掛けてくれたのが、おばあちゃんだった。てっきり無人だと思っていた屋敷から現れた彼女に、私たち兄妹は心底驚き、屋敷の前で騒いでいたことを咎められはしないかと身構えた。しかし、おばあちゃんは柔らかい声で「見せてごらんなさい」と兄のブリキの車を受け取り、ひっくり返して入念に眺めると「直してあげられるわ。いらっしゃい」と、私たちを屋敷に招いた。その頃は、今ほど他人を警戒するようにと親から言い聞かされていなかったので、私たちは素直に屋敷へお邪魔した。屋敷の中には、ぜんまい仕掛けの時計や、美しい装飾を施された陶器や青銅の置物など、古いが趣味のいい調度品がたくさん並んでいた。私たちが目を輝かせてそれらに見入っているうちに、おばあちゃんは道具を取ってくると、ブリキの車の車軸に挟まった小石を取り出し、元どおりに走るように直してくれた。
「大事に使うのよ。大切な物はひとつしかないんだから」
 おばあちゃんはそう言って、ブリキの車を兄に手渡した。人見知りの兄は、ありがとう、と上手く言えずにもごもごと口ごもっていた。
 帰り際、また来てもいいかと私が尋ねると、おばあちゃんは目をすっと細めて、柔らかい笑みを見せた。
「いつでもいらっしゃい」
 その声が、その日の言葉の中で、いちばん穏やかで優しい声だったことを、よく覚えている。
 それから、私はよく、おばあちゃんの元へ遊びに行った。おばあちゃんの屋敷には、機械仕掛けの調度品がたくさんあった。中には、相当古くてもう動かないものもあったが、おばあちゃんはその一つ一つを、とても大切にしていた。一度、居間の柱時計が止まったのに気づかず、いつもより遅い時間まで屋敷で過ごしてしまったことがあった。
「もう何度も止まるのよ、この柱時計。また修理屋を呼ばないと」
 そう溜め息をつきながらも、柱時計を見るおばあちゃんの目は穏やかで、まるで子供を慈しむ目のようだった。そんなに壊れるなら新しいのと替えればいいのに、と私が言うと、「とんでもないわ」と、おばあちゃんは首を横に振った。
「これはね、思い出の詰まった柱時計なの。同じ形のものはたくさんあっても、私と一緒にこの家で暮らした柱時計は、これしかない。本当に大切な物は、ひとつしかないのよ」
 「大切な物は、ひとつしかない」――これがおばあちゃんの口癖だった。
 ――どうしてそう思うの? そう尋ねると、「そうねえ」と、おばあちゃんは私の顔から目を上げて、窓際に目を遣った。窓際には、ランタンに似た形の、銀で蓋をされた円筒形のガラスの容器が、陽ざしを受けていた。ガラスの内側では、複雑な形に切り出された鉱石が、陽光に輝いている。鉱石は、私が眺めている間にも刻一刻と色を変えていて、サファイアを思わせる深い青色かと思えば、新緑をそのままガラスに閉じ込めたような若草色に、そうかと思えば夕暮れよりも鮮やかな赤色にと、様々な色の光を微かに放っていた。
「もうずいぶん昔のことよ。……そうね、私があなたより、少しお姉さんくらいの時の話」
 そう前置きして、おばあちゃんは私にお話を聞かせてくれた。


 おばあちゃんの名前はアリーチェ。
 アリーチェは、大きな商会の一人娘だった。ベラルディ商会と言えば、海の向こうでも知らぬ者はないと言われていた。祖父から事業を引き継いだ父は、仕事一辺倒な人間で、家庭の時間を持つことはほとんどなかった。アリーチェが大好きだった母も、彼女が6歳の時に、肺を患って亡くなってしまった。大きな屋敷で、大勢の使用人に囲まれ、何不自由なく暮らすお嬢様だったアリーチェだが、ひとりぼっちを感じるたび、心は満たされなかった。その境遇を不憫に思った使用人が甘やかすので、年頃の娘に成長する頃には、アリーチェはすっかりわがままな箱入り娘に育ってしまっていた。
 特にうるさかったのは、コーヒーの味だった。彼女には、これといった黄金比がなかったのだ。その日の気分によって、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーがいいという時もあれば、何も入れないブラックコーヒーを飲みたがる時もあった。その加減を、彼女は決して自分から伝えなかったため、使用人たちは来る日も来る日も彼女の顔色をうかがって、コーヒーの味に腐心しなければならなかった。一度、それを知らない新米使用人が淹れてきたコーヒーを、アリーチェは唇の先をつけただけでカップの中身をすべて床にこぼし、コーヒーの染みた絨毯の掃除を命じたことがある。そんな具合だったから、若い使用人は次々と音を上げて辞めていってしまった。
 そうして、使用人いびりだけが日課というアリーチェの生活が続くある日、久々に、屋敷の主が帰ってきた。――ただし、一人ではなく。
 玄関で父を出迎えたアリーチェは、新しい使用人を連れてきたのだと、最初は思った。父の後ろに佇んでいたのは、アリーチェと同じ年頃に見える青年だった。清潔に切り揃えられた色の薄い髪と、ガラスのように透き通った瞳に、アリーチェは思わず目を奪われた。そして、美術品のようなその端正な顔立ちにも。
 ――人形だわ。アリーチェはそう思った。
「知人のダノン博士からの頼みでね。彼をしばらく屋敷に置く」
 娘と共に出迎えた女中頭に、帽子と外套を預けながら、父は後ろの青年を顎で示した。恭しく一礼した青年は、楽器の音のように玲瓏とした声で言った。
「ダノン博士の元より参りました、カラクリ人形(アリオネッタ)のレントと申します。本日より、旦那様とお嬢様にお仕え致します」
「カラクリ人形……?」
 その名を、アリーチェも聞いたことがあった。歌(aria)を歌う、機械仕掛けの操り人形(marionetta)――カラクリ人形(arionetta)。貴族や王侯などの富裕層の娯楽のために作られた、人型の自動人形。職人が数年を費やし、人と見まがうまでに精緻に作り込まれた人形たちは、美しい声を持ち、どんなに難しい歌も歌いこなすという。アリーチェも一度、カラクリ人形の出演する歌劇を観に行ったことがあったが、そのあまりに完璧な歌声の前では、人間の出演者が霞んで見えたものだった。――目の前の青年は、そのカラクリ人形であると言う。人形だ、と思った第一印象は、思いがけなくも正解だったらしい。
「あらまあ。私はてっきり、人間のお手伝いさんだと」
 アリーチェの隣で、女中頭が物珍しげに目を丸くした。レントと名乗ったカラクリ人形の青年は、彼女にも微笑んで一礼した。その挙動に、微かにだが、歯車の軋む音が交ざっていると、アリーチェは気付いた。
「ダノン博士の研究に協力することになってね。人形がどれだけ人の心を覚えるか、彼で試すらしい。頭と胸の中に記録装置があって、人間と接した中で学習したことが、そこに蓄積される。そうすると、新しい行動のパターンを、人形自身が判断して行うようになる――心を覚える、ということらしい」
 女中頭にそう話す父を見て、珍しく饒舌だ、とアリーチェは思った。きっと、ダノン博士とやらの研究が成功したら、新しく人形事業なんかを始めるつもりでいるのだろう。父は数字の好きな人間なのだから。上機嫌で女中頭と話していた父が、「ああ、それと」と、不意にアリーチェの方を振り向いた。
「うちには若い使用人……アリーチェと同じ年頃の人間が居ないだろう。いい話し相手になるんじゃないか」
 おそらくは単純な善意から出たのであろうその言葉を聞いて、しかし、アリーチェの胸にはかすかな苛立ちが広がった。――娘の話し相手が目的なら、生身の人間を連れてくればいいのに、父は機械にその代役を任せるつもりなのだ。父にとって、娘の自分は、知人の研究のついで程度の存在でしかないということだろう。
「よろしくお願いいたします、お嬢様」
 奇麗な笑顔を作って、丁寧にお辞儀をするカラクリ人形を一瞥し、アリーチェはふん、と鼻を鳴らした。
「期待してあげるわ。お人形さん」

 それからレントは、あっという間に仕事を覚え、他の使用人を驚かせた。長年勤めている女中頭ですら手を焼いていた、アリーチェのコーヒーの好みも、数度の対応で完璧に覚えてしまったのだ。これには、さすがのアリーチェも驚いた。父いわく、レントは通常のカラクリ人形のようには歌を歌わない代わりに、通常のカラクリ人形が歌を記憶するのに使う記録装置も、今回の実験の記録のために割いているので、物を覚えて自分で判断するようになるのが、ずば抜けて早いのだという。最初こそ、レントを邪険に扱っていたアリーチェだが、どんな無理難題にも笑顔で応えるレントが、すっかりお気に入りになった。どんな気分の日でも、彼はぴったりの味のコーヒーを運んできてくれる。どこかに出かけたいような、明るい気分の日は、さっぱりとしたブラック。静かに考え事をしたい日は、砂糖を一匙。いらいらして落ち着かない日は、更にミルクをたっぷり――という具合に。コーヒーで気分を落ち着けている彼女にとって、それはこの上なく心地よかった。
「レント」
 ある時、ふと気になって、アリーチェは彼に尋ねた。
「はい」
 膝を低くして、彼女の前のローテーブルにコーヒーカップを置いたレントは、そのままアリーチェの顔を見上げた。そのガラスの瞳は、今は若草色を水に溶いたような、薄い色を透かしている。――やっぱりだ、昨日と違う、とアリーチェは思った。
「あなたの瞳、見るたび色が違うのね」
「ああ、それはですね」
 屋敷に来たばかりの頃は、外国人が覚えた典型的な敬語のような、機械的な話し方しかできなかったレントだが、今ではこんな具合に、アリーチェの好みに合わせて、多少丸みのある言葉遣いができるようになっていた。「私」と言っていたのを「僕」に変えさせたのも、アリーチェだった。彼は自分の左胸に手を重ねると、続けた。
「カラクリ人形には、記録装置があるんです。頭と、ここに」
「知っているわ」
「そうでしょう。――それで、頭の記録装置は、ぜんまいと歯車でできているのですが、こちらの記憶装置は、鉱石でできているんです。頭の記録装置とは違って、ごく短期的な記憶しかできませんが。その鉱石が、カラクリ人形のその時々の状態に合わせて、様々の色に光り、その色がそのまま瞳に映るようになっているんです。――人に喩えるのならば、気分が目に現れる、といったところですね」
「そう。じゃあ、隠し事はできないのね。人間と違って」
「おや、そうでしょうか」
 レントはいたずらっぽく――いつの間に覚えたのだろう、そんな表情を――目を輝かせると、アリーチェにコーヒーを勧めた。コーヒーを一口すすったアリーチェは、やられた、と思った。今日のコーヒーは酸味のある、すっきりとしたブラック。
「お嬢様は分かりやすい方ですから」
「あなただけよ。そんなことを言う変人は」
「恐縮です」
 恭しくお辞儀をするレントを見て、アリーチェは笑った。――レントが来てから、前よりよく笑うようになったと、先日、女中頭に言われた。確かに、そうかもしれない。
「今日はね、お父様が劇場の招待券をくれたの。準備して」
 空になったコーヒーカップをテーブルに置き、アリーチェは立ち上がった。コーヒーのおかわりを注ごうとしていたレントは、手を止めると、嫌な顔ひとつせず「はい」と返し、てきぱきとテーブルの上を片付け始めた。その様子を眺めて、アリーチェは思った。――以前はこんなふうに、急に言いつけを変えるたび、慌てふためく若い使用人を眺め、趣味の悪い悦楽に浸っていたものだった。何を言いつけても即座に応え、完璧にこなすレントを、最初は物足りなくも思っていたが、彼が人間らしい物の言い方や冗談を覚えてからは、前よりずっと、明るい気持ちで笑うことができるようになった。もしかすると自分には、人間よりも彼のほうが釣り合っているのかもしれない――そこまで考えて、アリーチェはふっと、苦い笑みをこぼした。レントを与えられたばかりの日には、父は機械に娘のお守りをさせるつもりなのかと、あれだけ臍を曲げていたのに。アリーチェは今や、傍にレントのいない生活は、考えられなくなっていた。荷物持ちの必要のない、ちょっとした買い物や、少しの外出でも、アリーチェは必ず、彼を連れ出していた。最初は、ただ彼女の一歩後ろを付いて歩くだけだったレントだが、すぐに、半身だけアリーチェの前に出てドアを開けることや、道端の水たまりを避けるようにさりげなくエスコートすることや、アリーチェが忘れかけていた用事を思い出させることを覚えた。最近では、街中の花壇に咲く花や、新しくできた店など、アリーチェの興味を引きそうなものを見つけ、彼女が退屈していると、そこへ行くのはどうかと提案するようになった。おかげで、レントと居るとどこへ行っても楽しいと、アリーチェは思っていた。
「行きましょう、お嬢様」
 コーヒーを片付けて戻ってきたレントは、厚手のコートをアリーチェに羽織らせた。窓から見える陽射しは柔らかだが、まだ外は寒いのだろう。
「馬車を呼びましょうか」
「いいわ。歩いて行く」
「そうおっしゃると思いました」
 レントは微笑むと、自身も軽い上着に腕を通して、ドアを開いた。機械である彼には、本来なら上着など必要ないのだが、仕着せの格好で街を歩くのは見すぼらしいからと、アリーチェが上着を買い与えたのだった。レント自身は、アリーチェに気を遣わせるなど恐れ多いと辞退したのだが、アリーチェは「私の言いつけに従わないつもり?」と押し切って上着を着させた。こうして彼に買い与えた外出用の服が、他にも何着かある。
「あら、お嬢様。お出かけですか」
 玄関ホールに降りていくと、女中頭が手を止めて見送ってくれた。アリーチェがレントを連れて歩くと言い出したばかりの頃は、人間の使用人を連れて行くべきだと気を揉んでいた彼女も、今ではむしろ、お出かけならレントを連れて行きなさい、とまで言うようになった。
「夕方には戻るわ」
「さようですか、お気を付けて。……ふふ、そうして並ぶと、カップルみたいですね」
 女中頭にそう言われ、アリーチェは耳が赤くなるのが分かった。レントはいつもと変わらない笑みを浮かべ、恐縮です、とおどけた声音で答える。
「冗談はやめて、ばあや」
「あら、だってお嬢様は、レントにぞっこんでしょう?」
 からかったつもりなのか本気なのか、いたずらっぽく問いかける女中頭から逃げるように、アリーチェは玄関へ向かった。レントの表情を見る勇気は、とてもなかった。

 劇場の演目は、『コッペリア』だった。
 喜劇、と聞いてはいたが、アリーチェにはどうにも後味が悪かった。物語は、人形の少女に恋をした青年と、その人形に嫉妬した人間の娘が主人公だった。衣装も演出もきらびやかで、明るい場面の多い舞台だったが、アリーチェの印象にいちばん深く残ったのは、最後の祝宴の場面だった。青年と人間の娘が結ばれたことを祝う賑う輪の外で、一人、呆然と立ち尽くす人形師の老人と、その足元に散らばった、ばらばらになった人形の少女。その人形の少女を演じていたのは、カラクリ人形だった。ばらばらにされた人形は、さすがにそのカラクリ人形ではなく、別の小道具だったが。アリーチェはそっと、自分の後ろに控えているレントの表情をうかがったが、暗い客席の中では、彼の顔は見えなかった。しかし、いつもは微かに光を放っているガラスの瞳が、その時は暗い色をしていたように思う。
「お嬢様にも、早くあのような殿方が現れるといいですね」
 劇場からの帰り、口を閉ざしたままだったアリーチェを気遣ってか、レントがそう口を切った。
「あなたまでばあやみたいな事を言うのはよして。興味ないわ、男性なんて。皆子供っぽく見えて」
「お似合いじゃありませんか」
「歯車、ひとつ引っこ抜いて差し上げてもよろしくてよ」
 レントの声の調子が、いつも冗談を言う時と変わりないので、アリーチェは安心した。――自分は、何を心配しているのだろう。カラクリ人形を気遣うだなんて。
「あーあ、レントみたいな殿方が居てくれれば」
 冗談に聞こえてくれればいい――そう思ってアリーチェが呟くと、隣のレントは苦笑を浮かべた。
「お嬢様、それでは旦那様ではなく召使ですよ」
「あら、私にはそれで充分よ。あなただけで」
 レントの顔を見上げて、からかうように――内心は、半分本気だった――そう言うと、彼はガラスの瞳を細め、眉を少し下げて笑った。人に喩えるならば、困ったような笑顔に見えた。ガラスの瞳の奥には、夕陽を薄めたような朱色が、ほのかに差していた。
「あなた、そんな不細工な顔も作れるのね」
「怒りますよ」
「あら、やってごらんなさい」
 おどけた声でアリーチェがそう答えると、レントはいつものように、ただ奇麗な笑顔を作った。機械の笑顔だ、とアリーチェは思った。
 彼には、笑顔を示すしか喜怒哀楽を伝える術はないのだということを、アリーチェが知るのは、もう少し後のことだった。

 屋敷に帰ると、女中頭が待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様がお呼びでしたよ。すぐ済む話だから来るように、と」
「お父様が? いつ?」
「先ほど戻られたのです。……ああ、レントはこちらに来るようにと」
 女中頭に手招かれ、レントはアリーチェの顔を振り仰いだ。父が不在の間は、彼の主はアリーチェだが、アリーチェと父の両方から命令があった時は、適宜、優先対象を変更するように設定されている。行っていいわ、とアリーチェが許可すると、レントは彼女に一礼し、女中頭の後について行った。
 自室に戻り、コートをベッドの上に放り出すと、アリーチェはそのまま、ベッドに座り込んだ。目を閉じると、劇場の光景が、瞼の裏にありありと蘇った。――人間と、人形が恋をする物語。人間は人間と結ばれ、人形は打ち捨てられて、それがハッピーエンドと呼ばれる物語。その舞台の招待券を自分に与えたのは――まぎれもない、父だ。
 行きたくはなかった。しかし、従わないわけにはいかない。アリーチェはのろのろとベッドから腰を上げると、父の書斎へと向かった。

「お父様」
 ノックをして書斎に入ると、父は黒檀の書き物机に広げていた書類から、鷹揚に目を上げた。アリーチェがドアを閉めると、父は対面の椅子を顎で示した。
「掛けなさい」
「……すぐ済むお話とおっしゃったでしょう」
 ドアの前から動かない娘を見ても、しかし、父は動じることなく、書類の束をめくりながら口を開いた。
「ダノン博士と話が決まってね。あの人形を、明後日にも返すことになった」
 全身からさっと温度が引いていくのが、アリーチェにははっきりと分かった。
「……そんな、急に? 私には何も言わずに?」
 自分の声が怒りで震えていると、アリーチェは気付いた。しかし、それでも父は、手元の書類に目を落としたままで、淡々と続けた。
「だが、お前があれを余程気に入っていると話したら、博士も分かってくれてね。記録装置だけ戻ればいいから、人形はお前にくれるそうだ。代わりに、新品の記録装置と取り換えてくれると言っていた」
 そう告げられた瞬間、今までよりずっと強く、怒りがふつふつと熱を帯びてくるのを感じた。アリーチェは力任せに、父の対面の椅子を引き倒した。耳に響く音を立てて、黒檀の重い椅子が床を叩いた。しかし、父は変わらず、目の前の娘よりも、手元の書類に並ぶ数字ばかりを目で追っていた。――そうだ、父は、商会の経営にしか興味がないのだ。目の前の私のことなど、見てもいない。そう思った途端、今までずっと胸に押しとどめていた鬱憤が、口を突いて爆発した。
「お父様は、私のことも人形と同じだと思っているんでしょう? 商会のために、結婚して子を残せばいいだけの道具とでも思っているのね!」
 ――こんなに声を荒げたのは、いつぶりだったろう。
 血の上る頭の片隅で、アリーチェは冷静にそんなことを思った。日ごろから、使用人に散々わがままを言ったり、機嫌が悪いとレントに当たり散らしたりしていたが、これほど激しく、怒りを誰かにぶつけたことなど、今まで無かったのではないか。それも、父に対して。――それはそうだ。父はこんな時でもないと、娘との時間を取ってくれない人間なのだから。
 娘が怒りをあらわに反発したというのに、父は微塵も動じず、書類を繰る手を止めもしなかった。――この男は、こういう人間なのだ。アリーチェは思った。私の親であることよりも、商会の経営と、威厳ある家長であることが大切なのだ。娘に話す事はあっても、娘から聞く事はないのだろう。――なら、私からも、話す事なんてない。もう、こんな場所には居たくない。
 乱暴に扉を開いて、アリーチェは書斎を飛び出した。廊下には、レントが困惑した顔で立っていた。――今、彼にだけは会いたくなかった。
「お嬢様」
「誰が立ち聞きをしていいと言ったの?」
 苛立ちを隠しもせず、怒鳴りつけるようにそう言うと、レントは頭を振った。
「いえ……旦那様に呼ばれまして。お嬢様のことで話があると……」
 返事を聞きもせず、アリーチェはその場から立ち去った。何もかもが腹立たしかった。そのまま、自分の部屋には戻らなかった。廊下を突っ切り、階段を駆け下り、客室を横切って、そして、そのまま玄関ホールへ駆け込んだ。すれ違う使用人達は皆、アリーチェのただならぬ様子に、驚いた顔をして振り返った。
「お嬢様?」
「どうなさいました? お嬢様」
「お嬢様、お出かけですか? 仕度を……」
 ――うるさい。うるさい。うるさい!
 まとわりつく声を振り払って、アリーチェは夜の帳が降り始めた街に飛び出した。街灯の明かりや、商店の賑わいを避けて、闇雲に走った。――逃げ出したかった。何もかもから。自分を人形のように道具扱いする父からも、その環境を何ひとつ変えてはくれないあの屋敷からも。レントをずっと傍に置いておけると思っていた自分からも――彼がいなくなると知っただけで、こんなに激しく荒れ狂う、自分の心からも。
 どこまで来たのだろう。気付くと、明かりも喧騒も届かない冷たい路地に、アリーチェは迷い込んでいた。息が切れていた。走り続けたせいか、冷え切った手の指先だけが妙に熱く、張ったように感じて、不快だった。
 アリーチェはその場に座り込んで、自分の息だけを聞いていた。路地の石畳の冷たさも、今はどうでもよかった。月のない、暗い夜だった。
 ――どれだけの間、そうしていたのだろう。
「……お嬢様」
 ふと、耳慣れた声が聞こえた。硬い足音。その足音に交ざる、微かな歯車の軋み。振り向かなくても、誰であるか分かった。
「違う。――違うの」
 無意識に、アリーチェはそう答えていた。その声が震えていると気付いて初めて、アリーチェは自分が泣いているのだと分かった。
 お嬢様。
 物心ついた頃から、周囲にはそう呼ばれていた。使用人にも、行きつけの店の店員にも、街の人たちからも。社交界では、「ベラルディ商会のご息女」と。――誰も、名前を呼んではくれなかった。自分の心をちゃんと見てくれた人は、誰も居なかった。
 「お嬢様」。
 「ベラルディ商会の息女」。
 違う。――違う。私は、そんなものになりたいんじゃない。そんな肩書き、私じゃない。
 レント、と呼んだつもりだった。しかし、喉から漏れ出た声は、みっともないほどか細く震えていて、自分でも何と言ったか分からないほどだった。それでも、人には聞き取れないその声を、レントは理解した。静かにアリーチェに歩み寄ると、彼女の正面に膝を落とし、はい、と答えた。
「アリーチェと呼んで」
 精一杯の声を絞り出し、アリーチェはレントの顔を見上げた。
 その顔を、今でも忘れることはできない。
 透き通ったガラスの瞳が、その時は、今まで見たこともないほど、深い青色を湛えて、震えていた。美術品のように美しく作られた顔が、その時は、これ以上ないほど苦しげに歪んでいた。
「……できないのです」
 ややあって、レントが答えた。精緻に作られた冷たい手が、アリーチェの頬に触れた。ぞっとするほど深く透き通ったガラスの瞳と、目が合った。
「僕は……カラクリ人形は、人を、」
 ――あい、する。
 声にはならなかったが、レントの唇がそう動いた。
「……ことが、できないのです。……お嬢様の名を呼ぶことも、旦那様に禁じられました」
 そっと、冷たい手が頬から離れた。その指先が濡れていたので、アリーチェは、堪えていた涙がまた流れだしたのだと気が付いた。でも、とレントは言葉を続けた。自身の左胸に手を重ねて。
「この心は、すべてお嬢様からいただいたものです。……お嬢様と過ごして覚えた、ひとつしかない大切な記憶です。初めて出会った日のことも、初めて笑ってくださった日のことも……今日が、初めてお嬢様の涙を見た日だということも、すべて覚えています。そのすべてを、大切だと思うのです。……おかしいでしょう? 人に仕える人形であれば、主の明日の予定や、こなすべき仕事のほうが、よほど重要な記憶です。けれど、僕が大切だと思うのは、あなたの笑顔や、涙や、そんな記憶ばかりなのです」
 そう言ってレントは、笑った。夜空のように深く透き通った瞳を細めて、歪んだ口端を苦しげに持ち上げて。ようやくアリーチェには、その表情の意味が分かった。――そうか。彼は、悲しいという心を覚えたのだ。
 アリーチェは手の甲で頬を擦り、同じように笑顔を作ろうとした。レントの瞳に映った自分の顔は、とても笑っているようには見えない、ひどい顔だった。
「帰りましょう。夜風はお体に障ります。……皆、心配していましたよ」
 そう言って、レントは手を差し伸べた。彼の手を借り、立ち上がったアリーチェは、自分の足がすっかり冷えて、まともに歩けなくなっていたことにようやく気付いた。ふらつくアリーチェの肩を、レントは黙って支えた。
「……あなたは、いつも笑ってばかりいるのね」
 アリーチェがそう言うと、レントは目を伏せて笑った。
「これしかできないのです。……悲しくても、苦しくても」
 そうか、とアリーチェは、さっきの彼の苦しげな笑顔を思い浮かべた。――涙を流せないというのは、どれほど苦しいのだろう。
 肩にそっと添えられた、硬く冷たい機械の手を、アリーチェは、胸が潰れるほど愛しいと思った。

 明日の朝には、ダノン博士がレントを引き取りに来る。
 そんなアリーチェの気持ちとは裏腹に、その日は、憎らしいほど天気のいい日だった。
「こんなにいい天気の日に、家の中に籠もってばかりいたら、罰が当たりますよ」
アリーチェの部屋を掃除しにきた女中頭は、手早くカーテンを開け、いやというほど陽光を部屋に招き入れた。窓の下には、のどかな往来の様子が見える。アリーチェは、先ほどレントが持ってきてくれたコーヒーに一回口をつけたきり、ぼんやりとベッドに腰かけていた。――ダノン博士は明日、レントの記録装置だけを引き取り、代わりに通常のカラクリ人形の記録装置をレントに入れ直すつもりだという。そうなると、レントは自分のことを忘れてしまうのだろう。このコーヒーの味も、今日が最後かもしれない。
「お散歩にでも行ってくればいいじゃありませんの、あの子も連れて。せっかく最後の日なんですから」
 女中頭もまた、レントのことを時折「あの子」と呼ぶほど、彼を気に入っていた。雑用や力仕事、ちょっとしたお使い、更には来客の対応まで、何を言いつけてもそつなくこなすカラクリ人形は、使用人たちの間でも人気者だったのだ。ダノン博士が明日やって来ると聞いて、落胆した使用人も多かったが、レントに新品の記録装置を入れて屋敷に残す、と聞くと安心していた。
「……ばあやは、レントのことを人間みたいに呼ぶのね」
「似たようなものでしょう、これだけ一緒に過ごせば。最初は、劇場で歌を歌うだけが仕事のお人形をお屋敷に置くなんて、と思いましたけれどね。いくら人間の気持ちを理解して、自分で考えて動くと言ったって、所詮は機械と思っていましたよ」
 女中頭は、てきぱきと部屋の中を片付けると、アリーチェが座るベッドの隣に腰を下ろした。
「でも、これだけ一緒に過ごせば、もうそんなふうには思えませんね。一緒に仕事をして、一緒にお嬢様のお世話をして。私が教えた冗談を、あの子、すらすら言うようになって……やっぱり、機械でもなんでも、人の形をしているものには、愛着が湧きやすいんですかねえ。それに、お嬢様と一緒に居る時が、いちばんよく笑うんですよ、あの子。それはもう、いろんな表情で。……だからねえ、きっとあの子も、お嬢様のことが好きなんですよ。――さあお嬢様、どいてどいて。お布団が干せないじゃありませんか」
 女中頭に追い立てられ、アリーチェは廊下に出た。ドアのすぐ傍には、レントが控えていた。
「レント」
 アリーチェが呼ぶと、レントははい、と返事をした。
「上着をお持ちしますね」

「……今日は、温かいのね」
「只今の気温は14度です。……そうですね、暖かいです」
 いつもと同じ公園を並んで歩きながら、今日のレントは機械のような話し方をする、とアリーチェは思った。そう思ってから、ふう、と小さな溜め息をこぼした。――そうだ。彼は機械なのだ。どれだけ自分が心を寄せたって、通じるはずはない。人間同士が結ばれるのと同じようには、この気持ちが叶うことなんてないのだ。絶対に。
 公園を出て、屋敷へ引き返そうと路地に足を踏み入れた時、往来の向こうが、にわかに騒がしくなった。石畳を蹴るけたたましい物音に紛れて、男の叫ぶ声と悲鳴が聞こえる。何事だろうか、と首を伸ばしたアリーチェの袖を、レントが強く引いた。
「レント?」
「お嬢様いけません、あの音は……」
 レントの言葉は、しかし、途中でかき消された。けたたましい物音が近づいてきたと思うや、ただならぬ様子で取り乱した大勢の人々が、二人のいる路地へ次々と駆け込んできたのだ。突然のことに、人々を避けきれず、アリーチェは人波に押されてよろめいた。大柄な男に押しのけられ、アリーチェは傍の建物の壁際まで突き飛ばされた。そうして、アリーチェははっと気づいた。――レントがいない。
 立ち上がろうとしたアリーチェが耳にしたのは、今まで聞いたことのない、耳をつんざくような馬のいななきだった。もはや動物の形すら保っていない、正気を失った獣の声に、アリーチェの足はすくんだ。――馬が暴れているのだ。音が、こっちに来る。誰か止めてくれと、男の叫ぶ声が聞こえる。それをかき消すほどの、大勢の人々の悲鳴、悲鳴。――逃げないと。レントを探さないと。
 しかし、そう思った瞬間、アリーチェの前に巨大な影が躍り出た。ちぎれた手綱を首に巻いた、彼女の背丈よりもはるかに大きな黒馬が、割れんばかりの勢いで石畳を蹴った。アリーチェは思わず悲鳴を上げた。その声が、馬の興奮にさらに火をつけた。馬はひときわ大きくいななくと、彼女をめがけて前脚を振り上げた。
 鈍い振動が、全身を襲った。――けれど、どこも痛くはなかった。
 馬の蹄が石畳を蹴る音と、人々の喧騒が、しだいに遠ざかっていく。アリーチェは恐る恐る、固く瞑っていた目を開いた。
 目の前は、暗かった。地面に座り込んだスカートの上に、何かが散らばって光っていた。金の歯車だと気付いた瞬間、アリーチェは弾かれたように顔を上げた。彼女の頭を守っていた腕が、ずる、と崩れ落ちた。
「レント……?」
 アリーチェを守るように覆いかぶさっていたのは、レントだった。しかし、アリーチェが呼んでも、彼はいつものように答えはしなかった。整った顔には、額から目の下まで、斜めに亀裂が走っていた。色の薄い髪の隙間から、金の歯車が、ちりん、と音を立ててこぼれ落ちた。
 ガラスの瞳には、何の色も灯っていなかった。

「お嬢様」
 女中頭がドアをノックする音が聞こえたが、アリーチェは返事をしなかった。何度かノックの音が続いたが、アリーチェが頑なに返事をしないでいると、やがて女中頭の足音は遠ざかっていった。朝から部屋に閉じこもっているアリーチェの元へ、深夜も過ぎたこんな時間になっても、女中頭は何度も足を運んで様子を見に来てくれていた。でも、今はそっとしておいてほしいと、アリーチェは思った。
 あの後、騒ぎを聞きつけた使用人が迎えに来て、アリーチェは壊れたレントと共に屋敷に帰った。翌朝やって来たダノン博士は、レントの頭の記録装置と、アリーチェが拾い集めたその残骸を、すべて引き取って行った。胸の記憶装置には、性質上、瞬間的な情報しか残されていないからと、そのまま残していった。カラクリ人形職人の知人がいるので、レントが気に入っていたのなら同じ見た目のカラクリ人形を発注する、と博士は言ったが、アリーチェは首を横に振った。自分と同じ時間を過ごして、好みどおりにコーヒーを淹れたり、一緒に舞台を観に行ったりしたレントは、一人しかいないのだ。同じ形の人形を作ったって、また彼に会えるわけじゃない。
 レントは今、壊れた部分を包帯で覆って、アリーチェの部屋のベッドに座らせてあった。カラクリ人形は非常に精密な機械であるゆえ、頭の損壊という致命的な損傷は、もはや職人にも直せるものではないと、博士は一目見て言った。不要になったなら回収する、と口にした博士を、アリーチェは思わずきつく睨みつけ、父に咎められた。博士と父が屋敷を去った後、アリーチェは使用人たちの手伝いを断って、レントを一人で自室に連れていった。ベッドの端に座らせてはみたが、顔に走った痛々しい亀裂を見るに耐えず、大事に取ってあったベルベットのリボンを代わりにして、人間にそうするように、包帯を巻いた。ベッドの端に頭を凭せ掛け、アリーチェはレントを見つめた。眠れない夜、コーヒーの代わりにホットミルクを運んできてくれたレントは、こうしてベッドの縁に腰かけ、アリーチェが眠るまで様々な歌劇の物語を聞かせてくれたものだった。歌を歌う機能はないとは言え、レントもカラクリ人形であったため、歌劇の台本はたくさん知っていた。しかし、彼の口から『コッペリア』を聞いたことは、一度もなかった。
 半分伏せられた瞼の下で、ガラスの瞳が、うつろに夜の色を透かしていた。その瞳を見ていると、不意に、アリーチェは涙が溢れ出した。――あの夜、レントの瞳はこんな色をしていた。その瞳で、まっすぐにアリーチェを見つめて、アリーチェの笑顔や、涙の記憶が、いちばん大切なのだと言った。……あの夜の涙が、彼の胸に残した最後の記憶になってしまった。彼にいちばん覚えていてほしいのは、笑顔だったのに。――レントが、私に思い出させてくれた表情だったのだから。
 涙は、後から後から溢れ続けて、止まらなかった。止めようとも思わなかった。アリーチェは、力なくシーツに顔を埋めた。
レントの記録装置が持って行かれて、彼が自分のことを忘れてしまったら、アリーチェもこの気持ちは忘れるつもりでいた。そうして、新しい記録装置を得て、レントがまた動き出したら、今度はただの人形として扱うつもりでいた。
 でも、今ならはっきり分かる。
 レントがいなくなると知っただけで、激しく揺れ動いた気持ちを、ただ人に仕える機械としてでなく、本当に大切に思うとレントが言ってくれたこの気持ちを――なかったことになんて、できない。いっそ自分の心も、カラクリ人形の記憶装置のように、白紙と入れ替えてしまえたのなら、楽になれるのだろうか……。
 そんなことを思いながら、アリーチェはいつしか眠りに落ちていた。ふと目を覚ますと、隣にレントの姿はなかった。さっと、胸の奥が氷のように冷たくなったのを感じ、アリーチェは飛び起きた。……まさか、父が連れていってしまったのだろうか。日ごろから、アリーチェがレントに入れ込むことを、快く思っていなかった父だ。――お願い、どうか、連れて行かないで。彼と過ごした記憶の欠片まで、私から奪わないで……!
 ふと、その時だった。扉をノックする音が、アリーチェの耳に飛び込んだ。扉に駆け寄り、力任せに開け放った彼女の前に立っていたのは、なんと、レントだった。ガラスの瞳の底には、微かに光が差していた。言葉を失い、立ち尽くしているアリーチェを、レントはベッドに座らせ、コーヒーカップを手渡した。まだ状況になじめず、彼の顔ばかり見つめているアリーチェの瞳に目を合わせると、レントは、初めて会った時のような、機械的な笑顔を作った。きし、と、歯車の軋む音がした。
「……どうして?」
 言葉を拾うことができず、やっとのことでそれだけ言ったアリーチェの前に、レントは膝を落とした。アリーチェの背中越しに、白みはじめた空の色が、そのガラスの瞳に映った。
「 あなた が、 作っ て くれた 心 は 」
 楽器の音のように玲瓏とした声を、切れ切れにぎこちなく継ぐと、レントは自身の左胸に手を重ねた。
「 覚え て います……ここ に 」
 昇り始めた朝日が、ガラスの瞳に色をつけた。輝くような、けれど優しい、太陽の色。
 アリーチェは、彼から手渡されたコーヒーに、そっと口をつけた。気分の沈んだ日に、レントが淹れてくれたコーヒーには、いつも一匙半の砂糖が入っていた。けれど、今日のコーヒーは、いつものそれより、わずかに優しい味だった。
「レント」
 呼んだ声は、震えていた。けれど、見せるのは笑顔と決めていた。見つめ返すガラスの瞳に映った自分の頬には、やっぱり涙が伝っていたけれど、あの夜よりは、ずっと笑顔に近いと、アリーチェは思った。彼女のその顔を瞳に映して、レントは幸せそうに微笑んだ。
 ――アリーチェ。
 はっきりとは、聞こえなかった。それでも、レントの唇がそう動いて、自分の名前を呼んだのだと、アリーチェにはわかった。


 ――それで、レントとはその後、どうなったの?
 私がそう尋ねると、おばあちゃんはふふ、と笑って、また遠くを見るような目をした。
「さあ、どうだったかしらね」
 そう言って、おばあちゃんはまた、窓辺の鉱石に目をやった。ガラスの器の中では、鉱石が優しい太陽の色に輝いていた。