黎明

 師走は凍てつく寒さと共に忘れ得ぬ過去を運んでくる。身も心も氷づけにされそうな空気から逃れ、宇野小太郎は自宅の玄関ではあと息を吐いた。かじかんだ両の手を擦り合わせ、乱雑に脱ぎ捨てた窮屈な革靴を爪先が扉に向かうように揃える。冷たいフローリングの床を軽く踏んづけて、リビングに通ずる戸を開けた。開けっ放しのカーテンの向こうに夜の喧騒がちらつく。宇野は手早く電気のスイッチを押すと、ベランダに面する二つの窓の鍵を閉め直し、濃紺色のカーテンを引いた。
 肌寒さを感じさせる静かな部屋に、宇野の趣味ではない掛け時計が時を刻む音が響く。午後八時、さっさと遅い夕食を始めるべく、宇野は鞄とコンビニで買った弁当を机に置き、背広を脱ぎながら自室へ足を運んだ。すっかり冷えた上着を皺が出来ないようにハンガーに預け、ネクタイも引っかける。日の当たらない部屋は外界とほとんど変わらぬ温度で宇野を抱き締めるので、宇野はスーツを脱ぐなり急いで厚手のスウェットを身に纏った。靴下は迷ったが、どうせ風呂に入る段階になれば脱ぐことになると分かっていたから、そのままでいることにした。
 厚い布越しでも足裏の温度は奪われていく。足早に脱衣場へ赴き、くたびれたシャツを洗濯籠に放り込んだ。そのまま洗面台で手と喉を綺麗にし、浴室のドアを開けて、備え付けのボタンを操作してバスタブに湯を溜める。視界の隅に桜色の入浴剤が入り込むが、宇野は構わず扉を閉めた。
 再びリビングに行き、冷えたコンビニ弁当を回収する。ダイニングスペースに隣接したキッチンに入り、電子レンジに弁当をそっと入れた。頭に浮かんだものより十秒長い時間を設定し、加熱を頼んだ。
 冷蔵庫から茶と作りおきの惣菜を取り出しても食事の時間はまだ訪れない。何気なしにリビングテーブルの上に並べられたリモコンを手に取り、テレビを点けた。名前も知らない芸人が大口を開けて笑う姿が画面一杯に映り、宇野は顔をしかめた。即座にチャンネルを変えるが、回せども回せども宇野の興味を引かない品のない番組ばかりだ。ため息を吐き、これで最後にしようと適当にボタンを押す。
 すると画面のあちら側で、わあ、と歓声が沸いた。レフトスタンドに吸い込まれていく白球を追うカメラが、次いでダイヤモンドを駆ける女を映し出す。十数年前から変わらぬ笑みをはりつけて、彼女は仲間の待つホームへ帰った。
 艶やかな長い黒髪を靡かせ、彼女がカメラに視線を寄越す。宇野は反射的にテレビの電源を切った。別のリモコンを手に取り、チューナーの電源も同様にした。外出前に確認したと思っていたが、衛星放送のチューナーのスイッチを切り忘れていたらしい。はあ、とため息をつき、宇野は二つのリモコンをテーブルの端に並べ揃える。丁度そのタイミングでレンジが作業を終えたと鳴き出したため、キッチンへ歩いていく。
 弁当を惣菜と湯呑みの隣に置き、ダイニングテーブルに腰かける。「いただきます」と手を合わせ、割り箸をぱきりと割った。
 かちり、かちり、咀嚼音に紛れて時計が生きる音がする。この部屋はとても静かだ。宇野がこの部屋を契約させられて以来、ずっと。宇野が一人の時も、宇野が一人ではない時も。
 何かが足りていないみたいに、この部屋はずっと静かだ。
 会話も寄り道もないまま「ご馳走さま」を終え、ゴミを処理して皿を洗った宇野は、リビングのソファーに身を横たえた。真っ黒のテレビ画面に、先ほどの女の残像が映る。少女の面影をそのままに、つくり笑いばかりがますます上手くなった女の微笑が目の前にちらついた。
 時刻は午後八時三十分になろうとしている。窓の外から染み込む冷気が宇野の首筋を撫でた。ぶるりと体が震える。牛革のソファーに身を寄せるが、それは値段ばかり立派なくせに何の温もりも提供してくれない。自然も人工物も人間も、三十路前の男にたいそう厳しい。宇野は体を固くし、瞼を下ろした。

 今でもあの日の夢を見る。すべての球児の憧憬が集まるその場所で、ミットを構える夢だ。打者を討ち取るために約束した配球を容易く破られ、掴むはずだった球を満員のスタンドに叩き込まれる夢だ。
 生まれ育った県が未だ成し遂げられていない全国制覇の達成まであと一歩のところだった。一点リードで迎えた最終回、二死二塁の場面。僅かでも気を緩めれば同点、一歩間違えれば逆転サヨナラで敗北を喫する可能性のある場面で、宇野は三年間連れ添った男に最高のボールを要求した。
 彼は富士山ほど高いプライドと練習などそっちのけで女と遊び回る軽薄さのため、真面目が服を着たような宇野とはまるでそりが合わなかったが、全国に通用する実力を持った投手だった。最後はストレートがいいと言って聞かない彼の要望通り、宇野はアウトローにストレートを投げ込むよう指示した。最終打席にのみ見られるバッテリーの分かりやすい配球は勿論他校に早々見破られ、対策されることが多かった。それでも宇野がストレートのサインを出すのは、男の直球に打者を圧倒する力があったためであった。九イニングをここまで投げ抜いた投手は、疲労の滲んだ表情を隠すように左腕で汗を拭い、宇野に強い視線を向けた。
 彼が振りかぶった一瞬から、世界は途端にスローモーションになる。宇野が構えたミットに吸い込まれるようにゆっくりと飛んできたボールが金属バットに覆われ見えなくなる。耳をつんざくような短く甲高い音が響き、ボールが軌道を変えて宇野の元から離れていく。白球は見る間に小さくなり、レフトの頭上を大きく超え、音もなくスタンドに消えた。背番号三を背負った四番打者が右腕を天高く突き上げる。
 球場を包み込む歓声が肌を震わせ、そこで世界は元の速度を取り戻す。鼓膜が破れるのではないかと思うほどの熱狂が四方から降り注ぐ中、宇野の前をランナーが駆け抜けていった。為す術もなく踏まれたホームベースを、ダイヤモンドを回る走者を呆然と見つめる。狂騒が徐々に遠ざかり、18.44メートル離れた場所で歯を食いしばる相棒の姿が霞む。ぶわり、背中に汗が噴き出す。忘れかけていた真夏の温度が宇野の全身を焼いた。
 彼のボールは完璧だった。配球を理解されていたことを加味しても、誰にも引けを取らない最高の球だった。打者が上手だったのか。それとも強気を崩さなかった自分のミスか。彼の反感を買ってでもリードを曲げていたら、いや彼は従わないはずだ、しかし我を通せばきっと変えられた。真っ白になった宇野の頭を次々に言葉が駆け巡るが、すべて泡沫に消えた。
 宇野の、宇野たちの夏はこれで終わった。どんなに『もしも』に思いを馳せても、逆転サヨナラ負けを喫し優勝を果たせなかったという結果しか残らない。
 誰一人として宇野らの名を呼ぶことのないスタンドは、残酷なほどに生き生きとしていた。劇的な勝利の立役者がホームに帰還すると、騒々しさは一段と増す。三塁側のベンチから飛び出した者もまとめてグラウンドでもみくちゃになる相手チームに反して、宇野たちは重い足を引き摺って自陣へ集まった。涙を見せる者は一人もいなかったが、誰も彼もが焼けた肌を白く染めて拳を握っていた。
 スタンドの盛り上がりも冷めぬ内に、生気を失った顔の宇野たちは喜色を隠さない勝者たちと向かい合って並ぶ。数時間前まで同じ決勝進出チームだったのに、決着がついた今は優勝チームと準優勝チームにはっきりと分かれてしまった。観客からすればただの勝者と敗者だ。宇野が全国一にしたいと心の底から思った愛する母校の名など、きっと誰も覚えやしないだろう。
 審判に従い頭を下げる。ううう、とサイレンが鳴り響き、本当の本当に宇野の三年間が終わったことを告げた。瞳の奥から溢れそうになるものをなんとか押し留め、宇野は背筋を真っ直ぐに伸ばす。宇野たちは敗北したけれども、最後まで宇野たちと共に戦ってくれた者たちの努力が消失するわけではない。共に応援してくれた皆の想いが跡形もなく散るわけではない。
 応援ありがとうございました。
 スタンドを見上げ、声を張りあげた宇野に、恥じる必要など全くないのだ。負けたことを悔いることはあっても、遠く離れたこの地まで来てくれた仲間を必要以上に悲しませることはしたくない。宇野たちの努力を、そして今痛いほど感じている悔しさを、きっと彼らも知っている。だから宇野は、胸を張って帰ればいいのだ。
 などと、宇野は思わない。思えない。何故ならメガホンを持った部員に混じって応援席に立つ女が、感情が抜け落ちたような顔で宇野を見下ろしているからだ。
 ―――四宮。
 彼女の名を呟く唇が震えた。一度だけ絡めた細い指の感触が右手の小指に甦る。
 四宮。
 宇野は彼女から視線を外せなかった。つくりものではない、ほんものの笑顔で宇野の頬に唇を寄せた彼女の記憶が宇野の頭にこびりついている。
 ごめん。ごめん。四宮、ごめん。俺が、お前を連れ去ってやるって言ったのに。俺が、お前を、この場所に。
 知らない歌が聞こえる。サイレンが耳の奥で反響する。太陽が痛いくらい宇野の皮膚を焦がす。すすり泣く人々の傍ら、表情一つ変えない女が宇野を見ている。
 八月、ずっと踏みしめたかった土の上、夢の残骸を負って、宇野の夏は終わった。

 ばたん、とリビングの扉が開く音により、宇野の意識は覚醒した。うっすらと汗の滲んだ首に手のひらを這わせながら、宇野は上体を起こす。
「おはよう」
 背後から聞こえた声に慌てて振り返る。先ほどまでテレビの向こう側にいて、つい数秒前には宇野の夢の中にいた女が、ダイニングキッチンの入り口に佇んでいた。
「……おかえり、四宮」
 四宮は「ただいま」と微笑み、手に持っていたグラスを掲げた。
「麦茶なくなったから今沸かしてる」
「飯は?」
「食べてきたよ。宇野くんは?」
「俺も食べた」
 室内は元の静寂を取り戻した。IH仕様のキッチンは静かなもので、四宮が沸かしているという水が今どれだけの温度になっているのかも分からない。掛け時計のみが四宮の視線を受けて奮起するように秒針を鳴らしていた。
「宇野くんお風呂は?」
「まだ」
「じゃあ先に入るといいよ」
 目も合わなかった。宇野は「そうか」とぽつりと返答し、あちこちが軋む体に鞭打ち立ち上がる。ふと目線をやったテーブルの上に見知らぬ紙袋が置いてあることに気付き、「それは?」と尋ねた。
「ああ」四宮は麦茶を飲み干し、空のグラスで「あれ?」と袋を指した。
「お土産。いいところのコーヒーらしいよ。明日土曜日だから朝はパンでしょ、ちょうどいいかなって」
 言われてみれば、なるほど確かにコーヒー豆の香りが室内を漂っている。宇野にはコーヒーの良し悪しどころか種類や味の区別すらつかないが、四宮が土産に持たされたのなら、それなりに値の張るものなのだろう。
「ありがとう。明日飲もうな」
「うん」と笑った四宮は、暗い表情でソファーの傍らに立ち尽くす宇野をじいと見た。
「どうしたの?」
「いや……」
 四宮の瞳は、彼女の腰に届くほどの長髪と同じ漆黒に塗りつぶされている。室内灯の光が映りこむ両の眼は、さながら黒い宝石だ。同じマンションに住む住民が欲しがるような、或いはすでに手に入れて宝石箱に閉じ込めているような、宝玉みたいな瞳が、この世の何よりも価値のある輝きを惜しみなく放ちながら宇野の眼前に晒されている。
 悪い冗談のようだと、いや、そうに違いないのだと、宇野は今も思っている。
「宇野くん?」
 こてんと首を傾げた四宮の髪が、ぱらりと音を立てて揺れた。やけに部屋に響いたその音に背を押されたように、宇野は「ああ」と声を出す。
「なんでもない。すぐに風呂入るな。疲れたろ、ゆっくりするといい」
 一息に言うと、返事も待たずに宇野はその場を後にした。呆気にとられたような四宮の「うん」という返事が聞こえたが、どうせその口元には笑みが引っ付いているのだ。宇野がどんなに引き剥がしたいと望んでも叶わない残酷の象徴が彼女のうつくしい顔を覆っている。見なくても分かる、知っているのだから。
 脱衣所の扉を閉め、宇野は大きなため息を吐いた。身に纏うものを一枚一枚脱ぎ捨てて、籠に詰めると、さっさと浴室のドアを開けた。大きな浴槽には透明な湯が張られており、転倒防止の凹凸がついた底が良く見える。むわりと立ち昇る湯気に肌が潤いを覚えるのを感じながら、プラスチックの桶で戯れに湯をかき混ぜた。四十度の湯が立てる音がひどく静かな浴室に響く。宇野は痛みすら感じる沈黙の中、自らも口を噤んで掬った湯を頭からかぶった。
 同じ動作を三度繰り返した後、湯船にゆっくりと体を沈めていく。冷えた体にびりびりと熱が沁みる。宇野は再び二酸化炭素を吐き出した。目を閉じて呼吸を止めると、世界は静寂に包まれる。瞼の裏には相変わらず彼女の姿が刻まれていて、この世で一番近い場所で宇野に寄り添っていた。
 四宮静は、絵画の中の女さながらの生気のない完璧な笑みを常に浮かべている。本音も建前も全て分厚い皮の裏に押し隠すくせに、大きな瞳で意思の強さを雄弁に語るから、見る者すべてが彼女に惹かれてしまう。不遜で、意外と短絡的で、容姿にも身体能力にも恵まれていて、掴みどころのない女。宇野の知る四宮はそういう女で、その本質は宇野が彼女と初めて会った日から全く変わらない。初めて彼女と口を聞いたその日から今日に至るまで、宇野には彼女を本当の意味で理解できた覚えがない。
 宇野は何気なしに自分の右の手のひらを眺めた。湯の中で揺らめく五本の指は歪で、実物よりも太く短い。左手で指の付け根に触れると、固い皮膚が指の腹を押し返した。薄っすらと残るマメの痕をなぞれば、もう痛みは消えたはずのに、どこかがずきずきと痛んだ。
 野球をやめてもう何年になるだろうか。高校三年間を捧げた球技への情熱は、最後の夏を終えた瞬間に萎んで消失した。同世代の選手と比べれば少しは実力がある方だったが、プロ入りできるほどの逸材でもなかった宇野は、大学進学を機に野球から離れた。その後、運よく一流企業に就職してからはますます野球に接する機会もなくなり、宇野と野球を繋ぐものはなくなった。
 四宮静を除いては。
「……はあ……」
 呼気が水面に波紋を作る。全身を刺す沈黙が煩かった。成人男性が悠々と足を伸ばして寛げる浴槽が必ずしも居心地のよさを提供するとは限らない。広い空間に一人でいると、思考は坂道をゆっくりと転げ落ちていくものだ。
 四宮静は、年端も行かぬ少女の頃から野球に惚れ込んでいた。強敵と戦い、仲間たちとしのぎを削り、昨日の自分に打ち勝つのがこの上なく楽しいのだと、いつか宇野に語った四宮は愛しさを湛えた瞳を輝かせた。野球を愛しているからこそ彼女は宇野を見つけた。宇野に彼女が秘めたものをさらけ出し、宇野を信頼した。
 あの夏、この体は宇野一人のものではなかったのだ。彼女の十数年来の夢も一緒に負っていた。己が、或いは誰かが捕るべきだった球が、遠ざかっていく場面が目の前で勝手に再生される。この球を捕れていたら、レフトのグローブに収まっていたら、最後のリードを変えていたら。後悔があの日選び得た選択肢とあったかもしれない未来を一つ一つ宇野の目前に並べていくが、社会人になり責任ある地位についた現在の宇野にとってそれらはただの幻だ。マッチ売りの少女が煙の中に見た夢と同じで、一時的な慰みにこそなれど、宇野の心を本当の意味で満たすことはできない。くたびれるまで働きながらタワーマンションの一室で女と暮らす現状を変えてくれるものなどありはしない。あるのだとしたら、それはやはり、ただ一人の存在だ。
「……あー……」
 宇野は浴槽の縁に頭を預け、大きく息を吐いた。思考を悪い方向へ誘う靄を払うように首を左右に振り、思い切り立ち上がる。全身を洗ってさっぱりするかと体の向きを変えた。必然的に視線が浴室の扉に向かい、同時に、擦りガラス越しの黒い影に気付く。
「うおっ!?」
 宇野が体を仰け反らせると、ばしゃ、と湯が室内に飛び散った。危うく足を滑らせかけたが、壁に取り付けられた手すりを掴み事なきを得る。
 ガラスの向こうで影がくすくすと笑う。宇野はばくばくと跳ねる心臓を胸の上から押さえつけ、「四宮……」と咎めるような声を出した。分厚い扉を隔てているが、反響した声はちゃんと向こう側の女に届いたようだ。
「そんなに驚くことないじゃない」
「何しに来たんだ? 何かあったのか」
「別に、歯を磨きにきただけだけど」
「それでそんなに近づく奴があるか」
 部屋の特性によりやたらと響く声が聞き取りづらいが、四宮が笑いを含んでいることは認識できる。かなり扉に近寄っているのか、「ごめんごめん」とひらひらと手を振るのがはっきりと見える。
「ちょっと話そうよ」
 宇野は自分の体がぎくりと強張るのが分かった。「何を」と四宮に問えば、彼女は普段通りの声色で「さあ」と返した。
「思いついたことを、なんでも」
「……適当だなぁ」
「いいじゃない、別に。寂しいんだもの。かまってよ」
 全身にまとわりつく滴が宇野の体温を奪っていく。宇野は浴槽を出て、壁にかけられていたタオルを手に取ると椅子に腰掛けた。
「……今日、収録だったんだろ。寂しいなんてことあるのか」
 桶で湯を掬い、タオルを浸した。その後それを軽く絞り、ボディソープを数回垂らす。宇野の趣味ではない、いやに甘ったるい果実の香りが充満する。
「賑やかで楽しかったよ。だからかな、なんだか宇野くんの傍にいたくなって。本当は一緒にお風呂に入りたかったんだけど」
 嘘をつけ。リビングでのあの一瞬、俺を拒んだじゃないか。反論を心中に押し留めておくのが随分上手くなったと宇野は思う。宇野が忌避していた生き方は、今や宇野の人生そのものになってしまった。
「じゃあ入るか?」
 年をとってしまったのだ。本心と言葉の一致度の高さが売りだった学生時代から、宇野は変わった。それがプラスに働くのかマイナスになるのか宇野にはまだ判断しかねるが、四宮とのやり取りで神経をすり減らすことが減った事実を考慮すると必然の変化だったようにも思える。
 現に、四宮は「なんか宇野くんすっかりからかいがいがなくなっちゃったね」と口を尖らせている。
「ただお湯に浸かるだけじゃ済まなくなるけど、それでもいい?」
「湯が汚れたら洗濯に使えないだろ」
 タオルで乱暴に皮膚を擦る。電車や会社から引っ付いてきたはずの目には見えない汚れを洗い流す瞬間が、今の宇野の一番の楽しみだ。
「ちぇ。つまんないの」
 愉快げに弾む声を出した四宮はどうせ微塵もつまらないなどと思っていない。宇野は全身を隈なくタオルで拭う。鼻が麻痺したのか、好みではない甘いにおいもいつの間にか感じなくなっていた。人間の器官なんてそんなものだ。大したことはない。耐え忍べばいつか慣れて、何も感じなくなる。社会の波に揉まれたように、彼女の住処で息をするように。
 手を動かしながらちらりと背後を振り返ると、相変わらず彼女はモザイク姿でそこにいた。歯を磨きに来たというのは本当らしく、洗面台の蛇口から水が流れ落ちる音や歯磨き粉のキャップが開かれる音も微かに聞こえてきた。
 宇野は口を噤んでタオルを洗い、体についた泡も湯で流した。湯が床を打つ合間に、話をしようと言ったくせにすっかり黙り込んでしまった四宮の声が微かに聞こえてきて、宇野は無意識に耳をすませる。途切れ途切れではあるが、四宮が紡ぐ音が何か宇野には分かった。
 叩きつけるように桶で湯を掬い、シャンプーの容器をひっ掴む。これ以上彼女の奏でる音を聞くくらいなら、湿った沈黙に鼓膜を破られた方がマシだと、宇野は本気でそう思った。耳から体内へ侵入した彼女の鼻歌が、棘の塊となって宇野の全身を駆け巡る。頭を抱え、耳を塞ぐようにして、宇野は髪の毛をかき混ぜた。
 世界一の男だけが触れることを許された手の感触を知っているのは、この世で宇野ただ一人だけだ。これが悪い冗談じゃなくて何だと言うのか。
 特売の安いシャンプーが両目に沁みて、宇野は無性に泣きたくなった。

 四宮の風呂は短い。カラスの行水とは彼女を起源とする言葉なのではと真面目な顔で考えてしまうほどに。しっとりと潤った黒髪や何を考えているのか分からない表情など、共通点と言えるものもある。
 そういう馬鹿な考えが頭の中で幅をきかせ始めた時は相当疲れている。というのが宇野の持論であり事実だ。宇野はソファーに深く腰掛け、キッチンで仁王立ちし、風呂上がりの麦茶を緩んだ顔で飲んでいる四宮に視線をやった。四宮が腰の辺りまで伸びた髪を擁してどうやって球児以上の速度で浴室を後にしているのか、甚だ疑問である(宇野と共に入浴する際四宮はゆっくり寛ぐため、宇野は彼女の早業を見たことがない)。流石にドライヤーで髪を乾かす時間は短縮できないようだが、風呂に消えてから麦茶を飲みに来るまでのタイムは一般女性を遥かに凌駕する。それが喜ばしいことか否かは宇野には判別しかねるが、四宮本人が至って健康体であるから問題ないのだろう。
「金曜日って何かやってたっけ」
 コップを手にしたまま、四宮が人一人分のスペースを空けて宇野の横に腰を下ろす。テーブルの上のリモコンをとろうと前のめりになった彼女が麦茶をぶちまけやしないかと宇野は心配したが、四宮のコップは少し傾くことすらしなかった。
「特に何もないだろ」
「一週間で唯一夜更かしできる平日なのにね」
 まあな、と相槌を打った後、間髪入れずに二人の隙間に沈黙が下りた。分厚いマットを敷いていてもむき出しの足から体温は奪われていく。宇野が人知れず両足を擦り合わせると、同時に四宮の手によってテレビが目を覚ました。しかし画面は暗いままで、四宮が「あれ?」と首を傾げる。
「入力切替? 宇野くん、何か見てたの?」
「え?」
 身に覚えがないと首を振りかけた宇野の視界にチューナーのリモコンが映りこみ、忘れていた記憶が甦る。テレビの向こうにいた女の微笑も克明に思い出され、宇野は咄嗟に苦い顔を作った。
「見てない。電源がついてたから消したんだ」
 四宮は宇野の言葉を信じたようだった。「そう。じゃあ私がつけっぱなしにしてたのかな。ごめんね」と片手を顔の前に掲げ、慣れた手つきでチャンネルを変えた。
 ぱっぱと目まぐるしく変化するテレビ画面を、宇野は無表情で見つめる。液晶に笑う人間の姿が映れば映るほど、反対に宇野の心は冷めていった。
「……眠い?」
 四宮の声がどこか遠い。宇野は「いや」と両の目頭を押さえ、「……ああ」と項垂れる。眠気はないが、週末の夜だと改めて認識したためか一週間分の疲れがどっと押し寄せてきて、体が怠さを訴え始めている。
「じゃあもう寝ようか」
 すがすがしいほど思い切りよくテレビの電源を消した四宮がリモコンを机に置く。位置のズレが気になったが、それを指摘する気力もそれとなく直す余裕もなく、宇野は見て見ぬふりをした。こっそりとため息を零す宇野の隣で四宮がすっくと立ち上がり、背伸びをする。思わず「お前は起きててもいいんだぞ」と投げかけた宇野だったが、「一人で起きてたってつまらないもの」と四宮に一蹴され、大人しく閉口した。
 四宮静は、一人でだって十分に生きていけるくせに、一人を嫌う。正しくは仲間外れを嫌う。輪から外される対象が自分だろうが他人だろうが関係なく、誰かが爪弾きにされることを良しとしない。彼女が野球という団体競技を好むことに起因する性質かあるいは帰結する性質かは不明だが、どのような環境に置かれようと一人でつんと澄ました顔をしていられる女の笑みから簡単に読み取れるものではない。それ故に、宇野は四宮が他人の温もりを重要視することを知った日、ひどく動揺したのだ。
 野球は九人いなければ始まらないが、十八人いなければ始められない。四宮が十数年前に宇野の前で口にした言葉だ。彼女に注目したメディアがこぞって取り上げたために、夕陽に染められた屋上でひっそりと宇野に手渡された宝物は今や世間的な四宮静の象徴となった。宇野は彼女の信念が日本中の人間の知るところになったことを誇りに思い、そして、車の排気ガスを吸い込んでしまったような、ほんのわずかの息苦しさを覚えた。ただならぬ声色で自分に語りかける少女の側面を内輪だけに留め、秘めておきたかったのかもしれないし、彼女が好奇の目に晒されることを危惧したのかもしれない。そのどちらでもあったのかもしれないし、もっと俗物的で、思春期の少年らしい感情だったのかもしれない。
 確実に言えるのは、宇野小太郎は四宮静に特別な思いを抱いていて、だからこそ、四宮静の寄る辺になりたいと望んだこと。だからこそ、四宮静の止まり木を務めるのがこの上なく恐ろしいこと。それだけだ。何かが足りない静かな家にあるのは、一人の男の、こんなちっぽけな感情だけだ。
 二人の寝室は整然としており、キングサイズのベッドがどんと置かれているだけの寂しい部屋だ。宇野が左側からベッドに潜り込むと、四宮も反対側からベッドへ上がった。
「おやすみ」
「ああ。おやすみ」
 四宮は宇野の就寝の挨拶に目を細めると、くるりと体を反転させ、宇野に背を向けた。容易く手折れそうな細い首筋が薄ぼんやりと白く光る。まるで気まぐれな猫のようだと思った。しなやかな肢体でボールを追いかける姿もよく似ているが、何よりその性格が。宇野を抱き締めて離さない夜が来たと思えば、素っ気なく突き放す朝が来る。何事に相対する時も四宮の根本には愛がある、それだけは確かだが、愛情は永遠に同じ形のまま無尽蔵に湧き出てくるものでもない。彼女が野球をこよなく愛し、そして憎んだように、宇野だっていつか彼女に飽きられる日が来るかもしれない。
 いや、可能性の話では最早ない。宇野には彼女に憎まれる理由がある。だからいつか、こんな一日二日の短い時間だけではなく、これから続くだろう数十年の人生を彼女に拒絶されて生きる日が、きっと訪れるのだ。
 宇野は四宮の後頭部から視線を外し、何もない天井を見上げた。デジタルの卓上時計に規律されたこの部屋は、真の静寂で満たされていた。シーツの音、彼女と宇野の生を刻む音、それ以外は何もない。必要最小限の音しか生まれない。人が二人いるのに、この部屋にも、何も足りていない。
「……」
 四宮に体を求められない夜は、大抵が宇野が心身共に疲れきっている夜だが、頭だけが異常に冴えている。思い出さなくてもいいことが脳味噌のそこら中で息を吹き返し、考えなくてもいいことばかり議題に取り上げられてしまう。四宮が宇野をやんわりと遠ざけた日はそれが顕著であり、多くの場合そんな時は四宮のことで頭が一杯になる。
 四宮静は、うつくしいかんばせにうつくしい笑みを被せた、ダイヤモンドよりも余程価値があり、ダイヤモンドよりも頑なな女だ。世が世なら傾国の美女になり得た容姿と、高い身体能力とよく回る頭を備えた彼女の道には、一つの塵だって存在しなかった。何をやっても負けなかった、そんな彼女が選んだのは野球だった。勿論女子野球の世界でも彼女は成功し、勝利に勝利を重ねていった。女子野球の世界なら、彼女はただの無敗の女王になれたし、それで十分満足出来るだろうと誰もが思っていた。ただ一人、四宮静本人を除いては。
 四宮は一途な女だった。野球を愛していた。野球を愛する男を愛していた。野球を愛する女を愛していた。だから、同じ野球を愛する男と女を隔てる決定的な壁に気付き、彼女の行く順風満帆であったはずの道を塞がれた。
 甲子園。野球に青春を捧げる者なら誰もが夢見る舞台。
 だがその門を叩くことが出来るのは、高校生の男だけだ。女には甲子園の土を踏む資格も与えられていない。
 その事実に、四宮は憤った。選手として甲子園のグラウンドに立ちたいと強く望み、同じ志の下集まった仲間と声を上げた。宇野も、始まりこそ強引に巻き込まれた形であったが、四宮の甲子園に行きたい、性別という自分ではどうにもできないことで排斥されたくないという本気の訴えに胸を打たれ、四宮の活動に力を添えることとなった。全国の男子野球部に試合を申し込み男子にも劣らない実力を披露した彼女らの存在を上手くメディアに宣伝し、四宮らの主張に共感した女子の支持を集めることにも成功した。しかし数十年に渡って手を加えられていない高野連の女人禁制の規則を一年にも満たない活動で変えられるはずもなく、四宮たちが甲子園に出場する夢は呆気なく潰えた。
 そして四宮たちの望みを背負った宇野にとって、母校を日本一に導く最後のチャンスとなったのが、あの夏だ。今も夢に見る、後悔の涙に溺れた高校三年生の夏だ。
 四宮の男子にも遅れをとらない実力を、ひたむきな努力を、野球への愛を、勝負への飢えを、宇野は間近で目撃していた。彼女の本気を肌で感じ、彼女を尊敬していた。野球人として、一人の女性として、四宮静を、好きになった。
 十八歳の宇野は、限りなく大人に近い子供だった。共に厳しい鍛練に耐え抜いた仲間と野球で頂上を獲りたかった。これまで積み重ねた努力の結果を分かりやすい形に残して、皆に認めてもらうために。誰も文句を言えない状況を作って、惚れた女を夢の舞台へ連れ去ってやるために。
 宇野が胸中を打ち明けた時、四宮は花が咲くような笑みを見せた。張り付いたようなそれではない、血の通ったほんとうの笑顔は、宇野の網膜に焼き付いて未だ薄れる気配がない。
 宇野の甲子園に賭ける思いを聞いた四宮は、向こうなりの妥協案のつもりなのだろう始球式の誘いを、考える素振りも見せずそれをばっさりと切り捨てた。それは同時に宇野の退路が断たれたことを意味する。
 今にして思えば、宇野はその瞬間から見えない鎖を体に巻かれていたのだろう。まとわりつく重圧に少しずつ蝕まれ、体を動かせなくなっていったのだ。自分のため。仲間のため。四宮のため。勝利の価値が上がれば上がるほど、重い体を引きずる宇野の手では届かなくなる。絶対に負けられないと考えるほどに、足が地面に呑み込まれて沈んでいく。
 それから、訪れた一瞬。たった一球で別れた命運。宇野を見下ろす四宮の表情からは余裕ある笑みも消え失せた。
 ―――四宮。
 あの日、あの瞬間、甲子園球場は何の音もしなかった。宇野に注がれる視線が、雄弁に宇野の不甲斐なさを非難していた。宇野は確かに、彼女の唇が、五文字の呪縛を形作るのを見たのだ。
「……っ!」
 宇野は小さく呻き声を上げ、両の瞼を固く閉じ直した。右隣から微かに聞こえる四宮の寝息が、宇野の心に安堵と恐怖をもたらす。
 あの日、四宮は真っ青な顔で涙を流し続ける日本で二番目の男に恨み言の一つもぶつけなかった。ただ、謝るな、と真剣な顔で宇野に告げ、氷のように冷たく凍えた宇野の手を握った。宇野が救われるために必要だった言葉を生まれる前に殺した上で、四宮は宇野の傍に立ち続けた。宇野の好意を無下にせず、今日に至るまで、四宮は宇野を懐の内に置いている。
 宇野はそれが、どうしようもなく怖い。恐ろしいのだ。四宮は宇野を求め、野球とメディア露出で稼いだ金で手に入れた高層マンションの一室で、宇野の隣で満足げに眠る。果たして彼女が何のつもりでぬいぐるみを抱いて離さない少女のように宇野を抱きしめ続けているのか、宇野には分からない。少女に母の顔と慈しみを教えるぬいぐるみと異なり、宇野は四宮に何も与えられないはずだ。彼女の積年の恨みを晴らし、輝かしい舞台まで手を引くことも出来なかった男が、四宮にどんなことをしてやれるのだろう。不釣り合いな住居、世界一の男しか触れてはならない体に触れる権利、宇野に与えられたものは多々あるが、反対に宇野が四宮に手渡せた幸福は何だろう。
 宇野小太郎は四宮静に今も恋をしていた。シーズンオフを迎えた四宮が宇野を気まぐれに手招くたびに、宇野の心は喜びに踊り、彼女を幸せにしなくては、と彼女を抱く手に力がこもる。四宮が宇野を気まぐれに放っておくたびに、宇野の心は恐怖に怯え、彼女を幸せにできる者は自分ではないのだ、と冷たいシーツに顔を埋める。
 足りないのだ。宇野には足りない。四宮静の足りない場所を埋められる何かを持っていない。そもそも四宮静という人間そのものを理解できていない宇野に、彼女の欠けた箇所を補うことなどできるはずがないのだ。
「……怖い」
 発した声は、坂道を転げ落ちていく思考をどうにか押し留めることも叶わない。
 四宮は確かに宇野を特別な存在として認めているが、その理由が分からない。宇野は四宮の人生の足枷になってはいないだろうか。何も為せなかった宇野とここまで歩いてきて、宇野を大事に抱いている理由が分からない。宇野は四宮を好きだけれど、四宮は宇野と同じ形の好意を持っているのだろうか。
 脳裏を過るのはあの日の五文字だ。額を流れ落ちる汗が瞼を超えて目に入る寸前、桃色の唇が音もなく放ったたったの五文字だ。
 考えたくないけれど、そうであってほしくないけれど、その答えしかないのだと、宇野は心のどこかでそう思っていた。
 四宮は、本当は、愛や恋よりも強い感情の縄を、宇野の首に巻き付けているのではないか。それが同時に、四宮本人の枷になっているのではないか。
 瞼の裏で、十八歳の四宮静が笑っている。夏のせいだけではない、熱に浮かされた赤らんだ頬を隠すように顔を俯けて、少女らしく笑っている。十八歳の宇野がずっと見たいと渇望していた、底のない恋の沼に宇野を突き落とした笑顔が、大人になった宇野には眩しくて仕方がない。瞼を押し上げてしまいたいが、そうすると隣で眠る四宮がこちらを見てはいないかと気になってしまう。ベッドに横たわる四宮が、あの日と同じ顔で宇野をじっと見つめて、あの日の五文字を繰り返す夢を何度も見た。あれがとうとう現実になる日が来るかもしれない、それが今日、今この瞬間かもしれない。
 思考がぐるぐると回り続けて止まらない。やはり今日の宇野は宇野が思っていた以上に疲れていたのだ。宇野は大きく息を吐き、四宮に背を向け、何度か瞬きをした。早く眠りに就けるよう祈りながら目を閉じる。
 今日は夢を見なければいい。このまま何事もなく意識が沈んで、次に目を開けたら朝になっているといい。そっと指を組んで、宇野は全身から力を抜いた。

「ねえ宇野くん、見て見て」
 四宮静が笑っている。泥に塗れた桜色のユニフォームを纏い、金色のトロフィーを抱いて、当然のような顔をしながらも、瞳に喜色を滲ませて。
「優勝おめでとう。四宮」
 宇野が彼女らの功績を素直に称賛すれば、三年間無敗を誇った女は笑みを深め、愛しげにトロフィーを抱え直した。
「私だけじゃなくて、チームの皆で掴んだ勝利だよ」
「そうだな」
「皆で勝ったよ。三連覇したよ」
「そうだな」
「次は宇野くんの番だね」
 宝石みたいな瞳が、口を開いたまま固まる宇野を映してきらめいた。
 四宮静は笑っている。幼い少女のように無邪気な顔で、宇野の活躍を目の前の何もない空間に描いて。
「そうだな。次は俺たちが日本一になる番だ」
 宇野は彼女の目の奥に不穏な揺らめきを見た。早く会話を切り上げて去らなければ、この何処かも分からない真っ白な空間の足場が崩れてしまうだろうと直感した。
「宇野くん」
 いつの間にか四宮は制服姿になっていた。桜を象った校章のすぐ側に赤いコサージュが添えられており、トロフィーは筒に変わっている。
「前も言ったと思うけど、宇野くん、私はね。君に何かを望んだわけじゃないよ」
 指先から体温が奪われていく。四宮は相変わらず笑っている。
「私は何も望んでない」
 白い地面ににヒビが入る。タイルが剥がれるようにぼろぼろと崩れ落ちていく世界の中、四宮は目を伏せてそっと微笑んでいた。
 もういい。
「私はただ、君と野球がしたかった」
 やめてくれ。声が出ない。腕が上がらない。もう聞きたくない。
「私と野球がしたいって言ってくれた君と一緒に」
 白と黒の歪な世界で、四宮だけが、ずっと笑っている。
「だから宇野くん、私は、君が」

「やめろ……!」
 宇野が自らの寝言で目覚めるのは実に二週間ぶりのことだ。ここ最近は極度の過重労務のせいか夢を見ることもなかったが、久々の休日に喜んだ体が気を緩めたのだろうか。宇野の祈りも虚しく、結局悪夢に揺り起こされてしまった。夢の内容を覚えていないことだけが唯一の救いだ。
 宇野は静かに深い息を吐き、四宮を起こしてはいないかと耳をそばだてた。明かりの灯っていない寝室は薄暗く、少しでも身動きしようものならシーツの隙間から容赦なく冷気が潜り込んでくる。
 呼吸を抑え、背後の様子を窺うが、四宮の寝息は聞こえてこない。宇野の病的な魘されように睡眠を妨げられた四宮が感情の読み取れない目で宇野を見つめているのが容易に想像でき、宇野は胸が苦しくなるのを感じながら、大きな音を立てないようゆっくりと体の向きを変えた。
 どうか四宮がこちらを見ていないように、と祈りを捧げつつ振り返った宇野の目に映ったのは、白い枕と平らなシーツだった。
「……は?」
 宇野は上体を起こし、改めて自身の右側を凝視した。頭の側から足の側まで、どんなに視線を巡らせても目に入るのは白一色だ。同じ時間に床に就いたはずの女の姿はどこにもない。  何故だか胸騒ぎがする。四宮がここにいない理由が、宇野の恐れるものかもしれないと強く思った。
 咄嗟にデジタル時計を見るが、豆電灯の明かりすらない薄暗い室内では画面の数字を判別するのが難しい。
「……四宮……?」
 四宮静は、一人を嫌うけれど、一人でだって生きていける。仲間がいなくたって、宇野がいなくたって、四宮は一人で笑っていられる。そんなことを、ふと思い出した。
 冬の吐息が宇野の体をするりと撫ぜていく。ぶるりと身震いし、鳥肌が立った体に鞭打ち、宇野はベッドからほぼ落ちるような形で飛び出した。氷のように冷たいドアノブを捻り、廊下へ転がり出る。
 どたどたと足を鳴らし、宇野は自分でも何故か分からないままリビングを目指した。四宮が何かを終わらせるならあの場所にいるはずだと、根拠もないのにそう思った。
「し、四宮」宇野は倒れこむようにドアを開け、寝起きの掠れた声を張り上げる。「四宮!」
「はーい」
 焦燥が前面に押し出された宇野の声とは違い、その声は十分な潤いを伴った何の変哲もないそれだった。目を見開いて声の主の方を向いた宇野は、そのままフローリングの床に尻もちをついた。
「四宮……」
 電球に照らされたキッチンに、四宮静はいた。普段は一つに結わえている髪を下ろし、パジャマの上に桜色のカーディガンを羽織っている。挽いたコーヒーをフィルターに入れている最中だったのだろう、中途半端に腕を上げたまま、四宮は不思議そうに宇野を見下ろした。
「どうしたの? 今にも死にそうな顔して」
 からからに渇いた口内からかき集めた唾液を嚥下して、宇野は「いや……」と弱々しく首を横に振る。四宮に死にそうな顔をしていると言われて初めて生気が戻ってきた。
「お前こそ、こんな時間に何やってるんだ……」
 宇野が反対に問いかけると、四宮は「こんな時間って?」とダイニングスペースの掛け時計に目を向けた。カーテンを閉め切っているため部屋は暗く時計の針も見辛いが、四宮は正確な時間を読み上げた。
「もう六時半だけど……」
「は!?」
 宇野は弾かれたように立ち上がる。四宮の告げた時間が己の想像していたものと全く違い、あまりの差に愕然とした。
「六時半? 嘘だろ?」
「ほんと。宇野くんにしては珍しく遅くまで寝てるなーと思って、そろそろ起こしに行こうとしてたところだったんだよ」
 どんなに疲れていようと寒かろうと朝の六時に起床するのが宇野小太郎という男の常だが、今日は三十分も寝坊してしまったらしい。寝過ごすことそれ自体は真面目な宇野と言えど何度も経験したが、四宮の前でここまで、それも四宮に起こされる寸前まで眠っていたなんて初めてだ。てっきり深夜にでも目が覚めたものと思っていたのに。
「そうか……」
「うん。私がコーヒー作るから、宇野くんは顔でも洗っておいで」
「……そうする」
 なんてことないただの寝坊だが、四宮に変な姿を見せてしまったと思うと、宇野の心に羞恥が宿る。今にも死にそうな顔をして四宮を探していた宇野は、四宮の瞳にどう映ったのだろう。
 生涯何度目か分からないため息を吐き、宇野は四宮が言う通り洗面所へ向かった。完全に目が覚めたのか、ようやく尻や足裏の冷たさを脳が認識し、突如襲い来た寒さに宇野は全身を震わせた。
 顔を洗い、ついでに寝間着から部屋着に着替え、キッチンへ戻ると、四宮が丁度食パンをトースターにセットしているところだった。
「もうちょっとで出来るよ」
「ああ」
 宇野と入れ替わる形で四宮は自室へ向かった。宇野はほのかに冷気が漂うキッチンの食器棚に背を預け、何をするでもなくただコーヒーメーカーを眺めた。ぽこぽこと湯が泡立つ音がして、香ばしい香りが辺りに充満する。傍らに置かれていた袋を見てみると、有名な百貨店の名と豆の銘柄が書かれていた。
 本当のことを言うと、宇野はコーヒーがあまり好きではなかった。コーヒーの香りは嗜むが、口に含んだ時の味の良さが分からないのだ。ミルクや砂糖を足せば甘味が出て宇野の舌でも分かるようになるのだが、そのままの味を楽しむことはまだ出来ない。
 そのため、宇野はコーヒーを飲む際に砂糖とミルクを用意するようにしている。しかし四宮が共に食卓につく場合は、それらは棚の中に封印されることとなる。
 その理由は単純なもので、四宮がブラックコーヒーを嗜むからにすぎない。三十路を間近に控え、少年の時代などとうの昔に終えたのに、宇野は未だに好きな女の前でコーヒーにはスティックシュガーを三本とミルクを一匙入れるのだと暴露したくないという子供染みた考えを持っているのだ。
 宇野の努力は実を結び、四宮も宇野はコーヒーをそのまま味わうものと思っているようで、今や二人分のコーヒーが作り終わるとなみなみと黒い液体が注がれたマグカップが机に運ばれるようになった。飲めないことはないが自ら好んで飲まないものが食卓に並ぶと考えると少し気分が沈むが、普段野球や取材で忙しい四宮とゆっくり食事ができる貴重な機会だ。僅かでも気持ちに前を向かせたい。
 二人で。ゆっくりと。いい機会になるだろう。
「……はあ」
 言ったそばから思考が下り坂を転がろうとしていることに気付いた宇野は、ため息をもって頭に生まれ始めた不穏な考えをかき消した。ごぽごぽ、と機械の奥で液体が溺れる様を横目で観察しつつ、不揃いのマグカップを棚から取り出す。宇野のマグカップに次いで四宮の桜色のマグカップを置いたところで、厚手のパーカーとスウェットに着替えた四宮がキッチンに戻ってきた。
 そのまま歩みを止めず、「私が淹れる」と嬉々としてコーヒーメーカーに近付く四宮には隙がなく、宇野が制する間もなく二つのマグカップにコーヒーを注いだ。黒い湖面が反射した人工灯が宇野の瞳に突き刺さる。
「宇野くん、あの、コーヒー」
 四宮が言い切る前に、宇野は「ああ」と頷いて二人分のマグカップを手に取った。
「コタツで飲むか? テーブル?」
「……あ、どっちでもいいよ。ヒーターは起きてすぐ点けておいたから、テーブルでも寒くないと思う」
「じゃあそっちにするか」
 宇野は物言いたげな視線を寄越す四宮に気付かないまま、ダイニングテーブルへコーヒーを運んだ。カップの底が机につく瞬間、右手の中指が陶器の肌に触れる。「あち」と指を引き抜き、ほのかに赤くなった箇所に息を吹きかけた。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫」
 じんと痺れるような痛みを発するそこを見下ろして答えながら、四宮が心配しているのはコーヒーの方かもしれないと宇野はぼんやりと思った。机を見やるが黒い染みは見当たらず、胸の中で安堵する。
 宇野がコーヒーに被害はない旨を告げてキッチンに戻ると、タイミングよくトースターがこんがりと焼けたパンを吐き出した。食器に乗せられたきつね色のパンを運ぶべく、ついさっき来たばかりの道を行く。
「ジャムにする? マーガリン?」
 背中で受け止めた問いを暫し考えた後、宇野は「マーガリン」と答え振り返った。
「言うと思った」
 四宮は冷蔵庫からマーガリンを取り出し、キッチンの電気を消した。軽やかな足取りで宇野の元へ来ると、女優のように優雅な動きで椅子に腰を下ろした。宇野も次いで木製の椅子に腰かけ、「いただきます」と手を合わせる。
 宇野の最初の一口は必ず飲み物と決まっている。宇野は左手をマグカップに伸ばし、二、三度息を吹きつけ湖面に波を作った後、少量のコーヒーを口に含んだ。芳醇な香りが鼻に抜け、苦みと酸味が舌の上を滑り、喉の奥へ流れ落ちていく。相も変わらず何が美味しいのか宇野にはさっぱりだが、勝手知ったるといった顔をしてカップをもとの位置に戻した。
 続いてマーガリンの箱を手繰り寄せたところで、宇野はふと向かいに座る四宮が浮かない顔をしていることに気付いた。四宮はパンどころかコーヒーにも手をつけず、お手本のようにぴしっと背筋を伸ばして座ったまま、コーヒーの水面をじっと眺めている。
 宇野も腕を引っ込めて四宮同様に座り直し、「四宮?」と彼女の名を呼んだ。
「……宇野くん……」
 いつもの笑みをどこにやったのだろう、眉を下げ、唇を突き出し、四宮は宇野を見る。
「……宇野くんに言っておきたい、大事な話があるんだ……」
 彼女の言葉が耳に入ると同時に、宇野の全身から汗が噴き出した。昨晩から続く悪夢の足音が今にも聞こえてきそうで、宇野はごくりと唾を飲み込んだ。
「だ、大事な話って」
 四宮は神妙な面持ちで湯気の立つコーヒーを注視していた。余程感情を衝き動かされるようなことがなければ滅多と作り笑いをやめない四宮が、親に叱られる前の子供のように気まずげに表情を歪めて顔を逸らしている。それも宇野に伝えておきたい大事な話があるなどという言葉を添えて。これが悪い話でなくて何だと言うのだ。
 四宮が何度も言葉を飲み込んでは口を開きかける度、宇野は焦燥感に苛まれる。何かが足りないこの部屋で、一人でだって生きていける四宮が、何かを終わらせようとしている。そんな予感が宇野をひたすらに駆り立てた。このまま四宮に話をさせてはいけないと、いつかどこかで覚えた直感が頭の奥によみがえる。
「実は、私、」
「ま、待ってくれ」
 それは最早無意識の領域だった。目を丸くして己を見つめる四宮の、その唇が結ばれたのを見て、宇野は自分が四宮を引き留めたことを理解する。
 宇野は視線をあちこちに彷徨わせ、すっかり渇いてしまった口の中を潤わせるためコーヒーを二口飲み、後に残るにおいに文字通り苦い顔をして、最後に四宮に真っすぐな視線を向けた。瞬きを繰り返す彼女の口元は僅かであるが緩んでいて、まだ宇野を待つ余裕のある四宮に恐れすら抱いた。
 彼女は自分で野球の道を行くことを決めたのだ。宇野が何を言おうと、きっと彼女の中ではすでに答えが出ていて、彼女が求める結果は変わらない。それは長年の付き合いで宇野も充分理解していたし、本当に四宮のことを思うなら、宇野は黙って四宮の言葉を受け入れるべきなのだ。宇野は彼女に施してもらってばかりで、彼女に何も返せない。彼女のため、それを第一に考えるならば、宇野はすぐにでも四宮を自由にすべきだ。荒野を駆ける狼を一人の人間の都合でいつまでも鎖に繋いでおくわけにはいかないのと同様に。女子プロ野球の世界で華々しく活躍する無敗の女王の傍に、無様に敗北した男がいていいはずがない。
 だから宇野がここですべきは、なんでもない、続けてくれ、と笑って、彼女に発言権を返すことなのだ。
「四宮……」
 浮かない顔をした男女が二人、ヒーターに足元を温められながら向き合っている。この部屋にいるのはただ一人でいい。ただ一人と、彼女が認めたもう一人だけでいい。
 だから宇野は、今すぐに、すべてをなかったことにしなければならない。
「ごめん」
 気付けば宇野は、あの日みたいに、四宮に言葉を殺される前に、そう口にしていた。
「四宮、ごめん。俺は、俺はずっと、お前の枷になってた」
 あの日の五文字が宇野を刺し貫き、磔にする前に、叶わなかった懺悔をさせてほしいと強く願った。
「俺は、俺が、お前を連れ去ってやるって言ったのに。優勝して、日本一になって、お前を甲子園の土の上に引っ張ってきて……」
 連日の試合で枯れ切った声を張り上げて、どうだ参ったか、と叫ぶつもりだった。凝り固まった規則を踏みにじってやったぞと、性別を超えた強い絆で結ばれた仲間の存在があったから俺はここまで上り詰めたのだと、宇野はこの国に住む全ての人間に主張するつもりだった。四宮は世界中の好意と悪意に晒されてもなお己の意思を貫いたのだ。彼女に協力すると誓った以上、保身に走るべきではないと思った。後でチームメイトからボコボコに非難されようと、好きになった女のためなら自分の安寧などどうなったって構わないと、本気で思っていた。
 しかし現実は宇野の思い描いた軌跡をなぞってはくれなかった。
「でも駄目だった。あの日からずっと、俺はお前に何もしてやれなかった。四宮……四宮、ごめん」
 宇野はぎゅうと強く目を瞑った。瞼の裏には四宮がいる。ユニフォームを、制服を、部屋着を、様々な衣装を身に纏った四宮全員が、宇野のすぐ目の前で笑っている。
 宇野の体に張り付けられてしまった彼女の笑顔を解放しなければならない。解放して、彼女を自由にしなければならない。それが四宮の枷である男の使命なのだ。
「お前がもう終わりにしたいって言うなら、俺は従う。俺はお前から与えられてばかりで、お前に何も返せない。だから、こんな俺なんていらないって言うなら、一思いに捨ててくれ」
 宇野はこんな時すら意のままにならない己の舌に苛立ちを覚えた。自分の意思で四宮の枷を外さねばならないというのに、それが宇野の使命であるというのに、何故唇から零れ落ちるのは悲劇のヒロインを諦めきれない女のような言葉なのだろう。最後まで自分の手を汚さないために生殺与奪権を相手に委ねる、まったくもって卑しい言葉を用いている。
 かぶりを振り、宇野は「いや、違う」と口にした。瞼越しに四宮の姿が透けて見える気がして、コーヒーの香りがする方へ顔を背ける。
「俺は、……これ以上、お前の迷惑になりたくない」
 だから宇野は、四宮のために、その言葉を口にしなければならない。
「お前のために」
 本当に?
「お前のために、俺は」
 本当に四宮のためだろうか?
 宇野が四宮に捨てられることを願うのは、本当に、四宮のためなのだろうか?
「……俺は」
 これ以上惨めな存在でいたくない、宇野小太郎の弱さから生まれ出た望みではないのだろうか?
 一度潤わせた口内はいつの間にか乾いてしまって、酸味が喉の奥に張り付いている。唾液を飲み込む度に取り残された苦味の残りかすが舌を痺れさせた。宇野はとうとう言葉を発せなくなって、瞼を閉じたまま枯れた花のように首を垂れた。
 四宮に決定的な言葉を言わせるのが嫌で、先手を打ったはずだった。しかし結局は尻すぼみで、決定打を欠くまま終わってしまった。己の不甲斐なさに涙が出そうだ。惚れた女の幸せのために自分を犠牲にすることも出来ない。
 あの日叶わなかった願いの残像を、宇野は十年経った今も追いかけている。暗い夜をただひたすらに駆けて、出口を探している。四宮の手を引いて、四宮が行くべき光溢れる道を探している。
「許さない」
 宇野は弾かれたように顔を上げ、瞼を押し上げた。耳に飛び込んだ言葉が空耳であることを願い、四宮の顔に焦点を合わせる。
「許さないよ、宇野くん」
 四宮静は。宇野の向かいに座る四宮静は、静かに笑っていた。三日月のように弧を描いた唇からあの日の五文字をさらりと吐き出して、四宮静は、背筋が凍るほどうつくしく笑っていた。
「……四宮、」
「謝ったら許さない。……って、言ったよね、私」
 夢にまで見るあの日の記憶が頭を過り、宇野は「ああ」とぎこちなく頷いた。確かに彼女はそう言った。宇野を見下ろしながら、宇野と同じ目線に立ちながら、呪いのような五文字で宇野の唇を縫い合わせた。
「宇野くんはどうして謝るの? 私、謝ってって言った?」
「言ってない、でも、俺のせいで」
「宇野くんのせいで、何?」
 四宮の声が少し低くなったが、飄々とした笑みは未だ健在だ。こてんと首を傾ける動作一つさえ様になっている。
「俺のせいで……負けた」
「宇野くん一人のせいで負けたの? 宇野くんは一人で野球をやってたの?」
 四宮の口調は疑問を何度も口にする子供のようで、それがいっそう宇野を項垂れさせた。高校時代に終えていたかもしれないやり取りをなぞる内に、己の体に蓄積された十数年がなかったことになり、若返ってしまいそうだ。
「でも、負けたせいでお前を連れていけなかった」
「私はそんなこと望んでないよ」
 宇野は自身の胸を切り裂かれたような心地がした。自分がこれまで築き上げたもの、夢に見たものが、一つ残らず塵と化して消えていく。「望んでない」と言い聞かせるように四宮が繰り返した。目眩がする。宇野は椅子ごとひっくり返りそうになるのをかろうじて堪え、揺らめく黒い水を見つめる。
「私は野球が大好きだよ。だから甲子園に行きたかった。強い相手と戦いたかった。それだけ」
 四宮の言葉に呼応するように、コーヒーが照明を飲み込んでは吐き出し、ゆらりゆらりと絶え間なく動いている。
「残念ながら叶わなかった夢だけど。私の夢。分かる? 宇野くん、私の夢なんだよ。私が叶えたかったの」
 そして、宇野が叶えてやりたかった夢だ。
「宇野くんが私を甲子園の土の上に立たせてやるって言ってくれて、すごく嬉しかったよ。でもね、それは私の夢じゃない。だから叶えてくれなくたってよかったんだよ」
「同じだろ。お前はずっと甲子園に行きたいって……」
「同じじゃないよ。私は甲子園に出て、いろいろなチームと戦いたかったんだもの」
 単に甲子園に「行く」のと「出場する」のは違う、と四宮は言う。宇野の記憶の中で笑う四宮が確かにそのようなことを言っていたような気がするが、今この瞬間の現実とごちゃ混ぜになってしまったからそう思うだけで、四宮の見解は全くの初耳かもしれない。
 宇野にはもう、何が事実で何が真実か分からない。砂糖を混ぜ終えたコーヒーが一見しただけでは甘味を加えられたと分からないように、宇野の記憶を振り返ってもそれが本物か判別することは不可能だ。コーヒーならば口をつければ舌で判断できるが、記憶は手のつけようがない。宇野の頭の中にしかないのだ、真偽のほどは神にさえ分からない。宇野がすべきことも。宇野が本当にしたいことも。
「私の夢は叶わなかったから、もうそれでよかったんだよ。宇野くんに何かを託したつもりはないよ。ただ、宇野くんが漫画みたいなことを言うから、嬉しくなっちゃっただけ」
「それを……それを叶えられなかったじゃないか、俺は」
 今にも泣き出しそうに表情を歪めた宇野に、四宮は静かに首を左右に振ってみせた。
「それはそうかもしれないけど、私の夢は潰えていたんだから」宝石みたいな瞳が、どこか遠くを映している。「宇野くんが気に病む必要なんかこれっぽっちもない」
 宇野は太腿の上で手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握った。力が溢れ、両の拳がぶるぶると震える。
「なんだよ……なんだよそれ……」
 四宮静は桜のように微笑を浮かべ、押し黙っている。平然としたまま変わらない表情が恐ろしい。押しても引いても反応のない四宮に恐怖を抱くと同時に、どうやったらほんとうの彼女を引きずり出せるのだろうと宇野は泣きたくなった。
「じゃあどうしてお前は俺と一緒にいるんだ。不甲斐ない俺を許してないからじゃないのか。俺が憎いから俺を手元に置いて管理しようとしているんじゃないのか」
 ぐっと押しとどめた涙の代わりに、宇野はこの十数年間溜めに溜めた思いの丈を吐き出した。ずっと言いたかったことだ。ずっと聞きたかったことだ。四宮に真実をぶつけてほしくて、しかし真実に触れて傷つくのが怖くて、ずっと封じ込めてきたことだ。四宮が口火を切ったのだ。今を逃せば、きっとまた宇野は駄目になる。
「俺がお前の人生の邪魔になってるんじゃないのか。俺が……」
 四宮に不釣り合いな宇野は、ここにいるべきではないのだ。きっとそうだ。惨めな宇野自身もそれを望んでいるのだ。そうに違いない。だから四宮に真実を言わせなければならない。四宮を、十数年ずっと思いを寄せていた女を、宇野に付き合わせたことで迷い込んでしまった出口のない夜から逃れさせなければならない。
「四宮、教えてくれ。どうしてお前は、俺の目の前にいるんだ」
 四宮の居場所はこんなところではない。叶わなかった夢に代わってささやかな幸福をもたらすことを誓ったのに、成し遂げられなかった男のすぐ近くではない。
 世界から音が消える。宇野の趣味ではない掛け時計すら口を噤み、宇野たちの顛末を見守っている。絶え間なく鼻に送り込まれたコーヒーのにおいも、喉の奥の残り香も、存在を消してしまった。宇野小太郎は上体を前に傾け、四宮のかんばせを覗き込む。
 四宮静は。宇野が恋をしている四宮静は、はりつけていた仮面を、ゆっくりと外した。
「宇野くんが何を言っているのか、よく分からないんだけど」
 宇野は一瞬、眼前の女が物言わぬ彫刻に成り代わったのかと思った。古代の人間が彫り上げた作品さながらの、目鼻立ちが整っているが生気を全く感じられない顔。四宮の顔はまさしくそれだった。
 四宮の顔から笑みが消えた。そう認識するや否や、宇野は背中に冷や汗が流れるのを感じた。四宮は余程感情を衝き動かされない限り、滅多と作り笑いをやめない。人並みに表情を変えることはあるが、その目の奥にはいつも笑みが潜んでいる。そんな四宮が笑うことをやめ、ロボットのように無機質な顔で宇野を見ている。宇野にはそれが何を意味するかよく分かる。高校時代の同級生の言葉が不意に脳裏を過る。あの日スタンドに立っていた四宮の姿がよみがえった。
 四宮静は、怒ると表情を無くすのだ。
「なんで宇野くんの目の前にいるか? ご飯を食べるために決まってるじゃない」
「そういうことじゃ」ない、と言おうとした宇野だったが、四宮の強い視線にあっけなく敗北し口を閉じた。
「なんでここでご飯を食べるか? 宇野くんと一緒に食べたいからだよ」
 美人が怒ると恐ろしいとよく言うが、四宮はその比ではない。何せ表情が全て抜け落ちているのだ。能面に一つ一つ退路を潰される恐怖たるや、生きた心地がしない。
「なんで宇野くんと一緒に食べたいか? 一緒に住んでるからだよ」
 四宮が宇野の名義で契約したマンションで二人は住んでいる。悪い夢を見ているようだと、宇野は現在進行形で思っている。
「なんで一緒に住んでるか? 分からない? 宇野くんが好きだからだよ」
 なんでもないように放り投げられた言葉を、宇野は危うく取りこぼすところだった。「えっ?」と聞き返せば、四宮は無表情のまま頬を膨らませた。宇野くんは馬鹿なの、と容赦ない言葉が宇野の額を打つ。
「ずっと好きだからだよ。高校生の時からずっと宇野くんが好きだから、一緒に住んでるんじゃない」
「どうして今更そういうことを言わせるのかな」と四宮はぷんすか怒っているが、宇野は状況が呑み込めず瞬きを繰り返している。宇野の耳が異常をきたしていないならば、四宮は宇野のことが好きだと言ったはずだ。その言葉の意味を、うまく理解できない。
「な、なんで……? なんで俺なんか……だって俺は、お前に何もしてやれない……」
「あのね宇野くん」
 四宮の眉が釣りあがる。表情が作られ始めたということは、四宮の怒りが峠を越えたということだ。全く安心できない状況に変わりないが、宇野は少しだけ心が軽くなったように感じた。
「私が見返りに釣られて人を好きになると思う? 宇野くんが、劇的な勝利を飾ってお前をスタンドから引きずりおろして甲子園に立たせてやるぜベイビー、なんて言ったから好きになったんだと思う?」
「俺はそんな風には言ってない……」

「そういう、細かい違いに律儀に訂正を入れる真面目なところだよ。私が可愛いなって思うのは」  全く些細な違いではないのだがそれはともかく、四宮は台詞の改ざんを指摘した宇野に機嫌を直したらしい。未だに鼻息荒く怒っているものの、口元が少しずつ緩みだしている。
「どんな小さなことにも真摯に向き合ってくれる君だから、私は好きになったんだよ。荒唐無稽な約束を叶えるつもりでいた君だから好きなの」
「で、でも、結局俺は何も出来なかった」
 宇野は四宮が好きだった。だから四宮を笑顔にしてやりたくて、子供じみた約束を交わした。叶えたとしても多方面から叱られ、叶えられなかったらこうなった。どちらに転んでも宇野には損しかないような約束をした。四宮が好きだったから。四宮の願いを、形は違えど、叶えてやりたかったから。
「結果なんてどうでもいい。宇野くんが真面目に私のことを考えてくれたから、それだけで幸せだったんだよ」
 あ、と思った。四宮は纏っていた雰囲気をがらりと変え、花が咲くように微笑んだ。過去を見つめる四宮が、宇野の記憶の中の四宮と同じ顔で笑う。少女らしい、血の通った笑顔を浮かべている。それでいよいよ、宇野はもう何も言えなくなってしまった。
「私は野球が好きだから」愛おしさが溢れて仕方ないという風に笑みを深めて、四宮は続ける。「宇野くんが一緒に野球をやってくれて、嬉しかったんだ」
 四宮静が己の夢のために最初に戦いを挑んだ相手は宇野小太郎だった。試合を終え、計画を明かされた後、宇野は四宮の無謀を咎めた。そんな夢が叶うはずがないと告げた。しかし、少女の抱く希望を無下にしたりはしなかった。
「宇野くんは私の夢を笑わなかった。自分のことみたいに困った顔をして、気持ちは分かる、って言った。最初は罰ゲームだったけど、最後まで私たちのサポートをしてくれた」
 だから好きだったよ、今も好きだよ、と、四宮は照れくさそうに肩をすくめた。宇野がずっと見たかった顔で、四宮静は。
「私は一緒に野球をすればその人の人柄が分かるから。宇野くんの真っ直ぐさがすごく心地よくて、一緒にいると楽しくて、からかいがいもあって、好きになったよ。今も真面目なままの宇野くんが好きだよ」
 宇野は鼻を啜り、弱々しくかぶりを振った。そんなの、すきま風のように細々とした声を喉から絞り出し、顎を伝い落ちた雫を手の甲で受け止める。
「そんなの、お前、お前なあ……」
 四宮の言葉にはどこか聞き覚えがあった。おそらく甲子園の約束の前、或いはその時に、四宮が宇野に手渡したものなのだろう。当時の宇野は多分それを晴れやかな顔で受け取った、だがその後に敗北を喫したために宇野の心から自責以外のものが追い出されてしまった。
「言ってくれなきゃ、分からねえよ……」
 宇野は忘れてしまっていた。己を卑下するあまり、四宮がいつか好きだと言った自分を信用できなくなっていた。
「言ったじゃない、何度も」
 四宮が指しているのは高校時代のことだろうと思い、宇野は「そうじゃなくて」と首を振るが、「言ったよ」と四宮に切り伏せられた。
「いつ」
「セックスの時とか」
「お前なあ」塩辛い液体を嚥下し、宇野は声を張り上げる。「そんなの覚えてるわけがないし、そもそもそんな時に言われて信じられるか」
「はあ?どうして」
「リップサービスかと思うだろうが」
「好きでもない相手に思ってもないことは言えないよ」
「嘘つけ、高校の時からそういうの得意だっただろ」
「それとこれとは違うじゃない?」
「それに昨日はしなかった」
「宇野くんが疲れてると思って遠慮してあげたのに、なんなのその言い方」
 唇を突き出してつんと顔を背けた四宮が、僅かな間の後、ぷっと吹き出した。「漫才みたい」と笑う四宮に引き摺られ、宇野も小さく笑う。涙混じりの吐息があまりにも痛々しくて、馬鹿みたいだ、と思った。
「でも、そうだね。言わなかったのと同じだね」
 ふと四宮が宇野に視線を寄越す。宇野は流れ落ちる透明の液体をそのままに、無意識に姿勢を正した。
「私は宇野くんじゃないから、宇野くんが何を思ってたか分からなかった。逆もそう。なんていうか、私はちょっと感覚に頼りすぎていたのかな」
「……俺だって……」
 鼻を啜ると、先ほどまでどこかへ行っていたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。じんと痛む耳には時計の針の音が飛び込んでくる。睫毛がばちばちとぶつかり合う音や、衣擦れの音もする。ついさっきまで何も足りていなかった部屋が、鮮明さに覆われていく。
「この際だからはっきりさせておこう。私は宇野くんが好きで、ずっと一緒にいるつもりだけど、宇野くんは?」
 四宮の白い肌、夜を吸い込んだような黒髪、身につけている桜色、何もかもがこれまでよりはっきりと宇野の目に映った。作り物のように見える笑顔の、頬を彩る淡い桃色も、色鮮やかに。
「俺は……」
 四宮静の笑顔に命を与えるのが自分であればいいと思った。一人でだって生きていけるけれど一人でなんていられない四宮を支えられる人間になりたいと思った。結果的に約束を守れなかった自分を四宮が欲した理由が分からなかった。口を閉ざして四宮の好意を受け取った。そのくせ四宮に捨てられる予感に震えていた。
「俺はお前が思うほど真面目な人間じゃない。お前に何も与えてやれないし、自分に自信もないし、悲観的で神経質で、絶対お前を不快にさせる。今もしてるかもしれないが」
 思えば高校時代から、四宮に導いてもらってばかりだ。彼女のために出来ること、彼女のために出来たこと、そんなものがあっただろうか。あったのかもしれないが、全て涙に押し流されて忘れてしまった。唯一誇れることと言えば、十数年間ずっと、そしてこれからも一途でいるだろうとこくらいだろうか。蠍座の女を自称する四宮よりも、余程面倒な感情の抱き方をするだろうが。
「だから……」
 だけど、もう一度だけチャンスを貰えるのだとしたら、宇野がすべきことは一つだけだ。
「そんな俺でもいいなら、お前の傍にいさせてほしい。今度こそお前を絶対に幸せにするから」
 リビングの扉が軋む。温められた空気が耳元で張りつめている。湯気を吐き出しきったコーヒーが見守るように揺れる。こんがりと焦げたトーストが皿の上で横たわっている。
 四宮静が笑う音がする。
「なんかもう、ほんとに今更すぎて笑っちゃう」
 四宮が笑う。呆れたように眉を下げ、幸せの色をした瞳に宇野を閉じ込めて、四宮は笑う。
「正直宇野くんの嫌いなところなんて結構あるよ。そういうのも全部まとめて、足し引きして、総合的に好きなの。今更何を畏まってるの? それが真面目なんだってば」
「お、お前から始めたんだろうが」
「それに今度こそって何? 家に帰ってきたら好きな人がいるだけで十分幸せだけど」
「……そういうのはもっと早く言えよ……」
「言ったけど信じてなかった」
 宇野はずるずると崩れ落ち、額を机に預けた。それもそうだ。先に言えと思わんでもないが、四宮も宇野自身も信じられなかった以上どうなったとも思えない。「ごめん」と素直にこぼすと、四宮が「ほんとだよ」と返してきた。ただそれだけのことが、宇野の周囲を明るく彩る。何かが詰まったような耳に、耳元で吹きこまれているみたいにはっきりとした四宮の笑い声が届く。
「折角の休日なのに、何これ。変なの」
 宇野は頭でバランスを取りながら、すまん、と次いで謝罪した。別にいいよ、と四宮が言うので、だらしない体勢をやめて正しく座り直す。赤くなっているだろうな、と考えつつ痛みを訴える額を擦っていると、四宮が目ざとく「赤くなってる」と宇野の額を指さした。「人を指さすな」と咎めるも、四宮はどこ吹く風でカップを手にとる。
「あ、すっかり温くなってる。もう、宇野くんが変なこと言うから」
「俺のせいか」
 宇野も四宮のようにコーヒーに口をつける。淹れたてだったコーヒーは猫でも飲めるほどの温度になってしまっていた。温度が高ければ湯気に混ざった香りや舌に残る余韻を味わうことも出来るが、冷めてしまうと少し苦いだけの液体だ。元々ブラックコーヒーの味が理解できない宇野にとって、冷めたコーヒーは最早何が美味しいのか分からない黒い水にすぎない。  悪戯を叱られた犬のような悲しい表情を浮かべる宇野に対し、四宮は平気な顔でコーヒーを飲み干した。
「まだ豆もあるし、淹れ直そう。宇野くんも飲む?」
「ん……うーん」
 宇野は咄嗟に頷くことが出来なかった。温いコーヒーと冷めたトーストは味気ないことこの上ない朝食であるが、新しく淹れ直しても出てくるのはブラックコーヒーだろう。そうなるとまた首を捻りながらコーヒーを飲み進めることになるわけで。せめて棚の中のミルクと砂糖を解禁できたならば。
「まあ、それを飲んでから決めたらいいよ。私は淹れるね」
 四宮はひらりと長い髪を翻してキッチンに向かい、コーヒー豆を挽き始める。途中で「あっ」と大声を上げたため、宇野は慌ててカップを置き「どうした?」と声を張った。
「忘れてた、この話をしようと思ってたんだった」
 コーヒー豆を放り出し、四宮が宇野の元に駆け寄ってくる。四宮は先ほどとうって変わって生き生きとした顔で「大事な話」と囁いた。
 宇野の全身が石になる。大事な話、は今しがた終わったのではなかったのか。作り笑いもやめて深刻な表情を浮かべていた四宮の姿を思い出す。あの表情に見合う大事な話がまだあったのか。宇野はだらだらと冷や汗をかきながら四宮の唇を凝視した。
 四宮は赤い舌にどんな言葉を乗せるのか。別れ話以外で、別れ話以上に大事なこと。まさかプロ引退? それともあの夜のあれがあれであれに? 流石にタンスに隠してある金属の輪が見つかったなんてことはあるまい。心当たりと思しきあんなことやこんなことをぐるぐると頭の中で走らせている宇野の目前、四宮の口が動き出す。
「宇野くん、コーヒーに砂糖入れてもいい?」
「……ん?」
 予想外。思いもよらなかった発言に、宇野は聞き返す他ない。
「実は私、ブラックコーヒーってあんまり好きじゃなくて……砂糖を入れたいんだけど」
「んん?」
 四宮は困り眉を作り、えへへと笑った。宇野の記憶によれば、四宮はコーヒー本来の味を優雅に嗜む女だったはずだが。
 疑問をそのまま口にすると、四宮は「ええ?」と目を丸くした。
「全然。砂糖を足した方が美味しいじゃない。宇野くんは邪道だって怒るかもしれないけど」
「はあ? なんで?」
 謎の矛先は次に宇野に向かった。自分のことだから間違いようがない。宇野は他人がどのように何を味わおうと口出しするほど小さな男ではない。特にコーヒーとなれば、当の宇野がミルクと砂糖を入れて飲むことを常としているのだから、四宮が同様にしたところで不満を抱くはずがないのだ。
「だって宇野くん、いつもコーヒーをそのまま飲むから。何かこだわりがあるのかなって」
 四宮の口からそのようなことを伝えられ、宇野は脱力してしまった。確かに宇野はリモコンの並び順や角度すらも気にする几帳面な男だが、他人の食事にいちいち口を挟む無粋さは持ち合わせていない。
 卵が先か鶏が先か。誤解が誤解を生み、真相を覆い隠す恐ろしさを、今日はよく感じる日だ。
「いや……逆……」喉の奥からせり上がる笑いを堪え、宇野は「四宮がブラックで飲むから、俺が味を変えるわけにはと……」と本当のことを伝える。
「何それ」
 四宮がとうとう声を上げて笑い始めた。
「馬鹿みたい。もう、そうならそうって宇野くんも言ってよ」
「言えるか。ああもう、我慢して損した。俺も砂糖とミルクを入れる」
 部屋に四宮の朗らかな笑い声が満ちる。宇野の愛する女が選んだ時計がゆったりと時を刻んでいる。何かが足りなかった家を、何かが満たしていくのを宇野は両の眼で確かに目撃した。
 一杯目のコーヒーを一気に飲み干し、宇野は四宮の手を引いてキッチンへ歩いていく。砂糖とミルクの隠し場所を四宮に教え、中途半端な状態で放置されていたコーヒー豆に向き合った。挽きたての豆の香りがぶわりと広がり、宇野の全身を包み込む。色鮮やかな世界で食べる冷めたトーストと甘いコーヒー、傍らには目に見えない思いで繋がった相手。きっと記憶に残る一日になる。宇野はそう思った。
 ふと顔を上げると、カーテンの向こうで輝きを放つまるい炎が見えた。布の隙間から眩い光が射し込み、二人の住処に温もりを落とす。宇野小太郎のすぐ傍で、四宮静が自身のヒッティングマーチを口ずさみながら、スティックシュガーを振り、無邪気に笑っている。
 長かった夜が明けている。