偏食とコーヒー

 朝日が昇り始めた空がゆっくりと白く滲んでいく。まだ頬を痛ませるような冷たさの孕んだ風が通り抜けていくと、思わず身震いが起こった。それでもベランダの手すりに両腕を乗せて、立ち並ぶビルディングやマンションを見つめてしまうのは、こんな景色を久々に見たからなのかもしれない。吹き抜ける風に短くなっていく煙草を咥えながら、靴下を履いてくれば良かった、と喬林修一は少しばかり後悔する。広いようで区切られた景色を眺めていると、眼下にある乾いた道路から、物流センターのトラックが大通りを抜けていき、時折大きな駆動音を耳に届けてくる。未だ街は眠ったまま、昼間の喧騒なんて嘘のように静かで、呼吸をすれば冬の澄んだ空気が煙草の煙と一緒に肺に流れ込んでくる。
 こんなに静かな朝を迎えたのはいつぶりだっただろう、と修一は煙を吐き出しながら、ぼんやりと思う。朝はいつも何処か忙しなくて、起きたらすぐに仕事のことを考える毎日だった。誰のために働いているのか、何のために働いているのか、そういうことを考える暇もなく、ただ目の前の過ぎていく日常を過ごしていただけのような気さえする。ここ数年で安定した仕事や、生活の中でも、精神は何処か生き急いでいたのかもしれない。それが今日はなんだかゆっくりと過ぎていくような気がして、それがどうにも不思議な気分だった。
 強い風に流されて、あっという間に消えていく煙を見つめてから、携帯灰皿に煙草を押し付ける。音もなく押しつぶされた煙草の火が消えたことを確認して、まだベッドで眠っているだろう小月重音も自身と同じであればいいと思う。修一よりも日々を忙しくなく生きている彼女が、穏やかな朝を迎えられたらいい。そんなこと小さく思い描いてから、修一はリビングへ続く窓に手をかけた。

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 修一が重音と出会ったのは二十八歳の時だった。それから五年が経過しているから、修一は三十三歳になり、当時は二十四歳だった重音も三十路の手前になった。お互いに未だ大人は言い切れず、しかし子供でもなくなったのだと修一は思う。出会いは知り合いバンドのライブ後の打ち上げで、バンドマンの知人に頼まれて店を貸した時だ。あれから随分と経つが、相変わらず修一の店は時々バンドマン達の打ち上げ会場に使われている。重音は別のバンドの知人であり、その日のライブの客として修一の店にやってきた女性だった。
 あの日のことを、修一はいくらでも思い出せるような気がする。寒々しい外の空気とは、打って変わって、起き上がってからつけた暖房のおかげか、室内は程よい温度が保たれている。リビングのソファに腰掛けて、テレビをつけながら、気もそぞろに思い出してしまうのは、昨日はじめて重音が修一の自宅を訪れて、未だに寝室のベッドに転がっているからだろう。朝のニュースで、真剣な顔をしたキャスターが世間事情を読み上げているが、修一の耳にはなかなか届かない。政治家がどんな問題を起こしただとか、景気がどう下がっていくのだとか、日本に大地震がいつ来るのかだとか、普段なら耳を澄ませているはずのニュースが通り抜けていく。それよりも、昨日はこのソファで修一の隣に座っていた重音の横顔や、はじめて彼女に出会った日のことを何度も思い出してしまう。
 洋食屋の店主とその客である修一と重音が、どうしてあの日、言葉を交わしたのかを修一は鮮明に覚えている。普段であれば見知らぬお客様にそんな不遜なことはしない。結局は親から継いだ田舎町の洋食屋であるから、ご近所さんや、友人や、常連客が来た時には、軽口も叩いたりする。それでも、はじめて来店したお客様に、何故あんなことを言ってしまったのか修一はテレビを眺めながら考える。
「口に合いませんでした?」と、声をかけたのは修一だ。
 ライブは成功だったのだろう。打ち上げに店を貸して欲しいとの依頼を受けた修一は、予算に合わせたオードブルと酒を振る舞いながら、そう直感した。聞いていた人数よりも遥か多くの来客に一時は驚いたものの、椅子を取り払って立食式にして対応し、既にライブ後の高揚感に酔っ払っているような依頼主である旧友に軽い文句を言い募った。ぞろぞろとやってきた客は誰も立っていても気にしないし、疲れると店の隅に腰を下ろしている。興奮がおさまらないようで、喧しく盛り上がるおっさんバンドや合同で行っただろうバンドマンと客たちが互いの音楽を称え合っている。あの曲は誰が作ったのだとか、次は自分たちがトリをもらうだとか、そのギターは何処で手に入れたのだとか、そういうことをその日の客たちは話していた。修一と旧知の仲であるバンドマンも連れてきた何人かのファンらしき女の子たちと騒いでいて、店を継いではじめて了承したバンドマンの打ち上げに、あんな男でもモテるのか、と修一は小さく心の中で驚いていた。
 予算にあった料理と酒を提供し、その味なんてほとんど誰も気にしていないような飲み会だったことも覚えている。それは修一にとって、少しばかり傷つく現象であったが、それほどと言うこともない。そもそもの趣旨がライブの打ち上げであるのだから、厳かに料理を食べるのもなんだか違うのだと理解していたからだ。
 最早誰が何処のバンドに属しているのか、はたまた誰が楽器をかき鳴らす人種で、誰がそれを楽しみに手を振りまくっていた人なのかも分からない客が狭い店内にごった返している中に重音はいた。
 重音は、修一の提供したコロッケを半分に割り、不思議そうに中身を覗き込んでいた。その時出したのは、確か具沢山のコロッケで、父から継いだメニュウの一つだ。誰かに声をかけられると、酒の入ったグラスで笑って何度も乾杯をし、しかし誰かが去っていくと重音はまた箸でコロッケをつまみ上げて中をまじまじと確認する。最初は自分の提供した料理に、何か不具でもあったのか、と修一は不安になったが、どうやらそうではないらしかった。どちらかと言えば、食べるかどうかを真剣に迷っているような顔をしている。だから、声をかけたのだった。
 店の従業員に話しかけられると思っていなかったのか、厨房から出てきた修一に重音は多少驚いた顔をしていた。彼女は修一を瞬間的に眺めてから、曖昧な笑みを浮かべた。
「いえ、逆です」重音は苦笑しながら、「あんまりにも美味しいから、何が入っているんだろうと思って」と、持っていた皿を眺めて見せる。
 その時、修一は随分ほっとしていた。自分の振舞った料理が美味しくないと言われたら、多分それなりのショックを受けていただろうからだ。この頃の修一は、まだ父から店を継いだばかりであったから、いちいち客の反応を気にしていた。
「口に合ったなら良かったです」
「美味しかったです。ここってお昼も営業してるんですか?」
「ええ、してますよ。というか、本当は昼がメインで、夜は十一時までなんですよ。今日は水俣……ええっと、そこにいるおっさんバンドのボーカルが知り合いで」
 即座に旧友のバンド名を思い出せず、代わりに顎でテーブルの前で相変わらず何人かに囲われている友人を指した。
 重音はああ、と納得したような声を出して頷いてから、「良かった」と小さく呟いた。
「実は職場が結構近くて。良かったらお昼も食べに来てもいいですか?」
 洋食屋なのだから、別に断りを入れる必要なんて本来はなかった。店は客を選んだりはしないのだが、会話の延長で彼女は言っているのだろう。人懐こい笑みを浮かべている。
 修一とって、願ったり叶ったりの言葉だ。こんなところで新規の客に出会えるとも思っていなかった。
「ええ、喜んで。昼は少しメニュウが違いますが」
「助かります」
 にこやかに笑いながらコロッケを頬張る重音は、店を背負って厨房に立ったばかりの修一には新鮮だった。こんなふうに自身の料理を食べてくれる人がいることに、妙に安堵したことも覚えている。そうして、修一が重音が言った「助かる」の意味を知るのは、もう少し先の話でもあった。

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「おはよう」と、掠れた声が耳に届き、顔を上げると、ようやく目が覚めたらしい重音がぼんやり顔でリビングへとやってきた。くあ、と小さな欠伸を零す彼女は随分無防備で、修一はなんとなく笑ってしまう。ダイニングキッチンのシンクの前で人参を切っていた手を止めて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
「おはよう。眠そうだね」
「……ん。久々にこんな時間に起きた」
 呂律の上手く回らない重音に苦笑する。時間はもう九時を過ぎていて、普段の修一なら経営する店に出向いている時間だからだ。コップに一杯の水を入れて差し出すと、喉が乾いていたのか重音はすんなりと受け取って、すぐに飲み干してしまう。それで少しは這い寄る睡魔を追い出せたのか、重音はスッキリとした顔をする。
「ごめん、洗面所借りていい? あ、あと服ありがとう」
「洗濯回してる。どうせ、今日はうちでゆっくりするだろう?」
 出会った頃よりも遠慮のなくなった口調で、修一は決定事項のように告げた。
「いていいなら」
「悪いわけない。今、ご飯も作ってるから、顔洗っておいでよ」
「修一のご飯! やった」
 特に恥じ入るわけでもなく重音はにっと口角を釣り上げてから、洗面所へと向かっていく。修一の服を当たり前に着て、そのことに何の疑問も抱かない重音の背に、修一はなんとも言い難い幸福感を感じていた。
 五年間で知った重音のことは幾らでもある。例えば、出会った日にデスメタルのライブに足を向けていた重音が、実はジャズピアニストで、修一の店から近くのジャズバーで演奏をしていることや、しかしその収入が限りなく低く、昼間は事務員として不動産屋でアルバイトをしていて、重音は自分のことをフリーターと称している。映画や音楽といった娯楽を好んでいて、ジャンルの好き嫌いは激しくない。修一が好む音楽や映画にも、すんなりを興味を示してくれるから退屈をすることがない。そうして、彼女が酷い偏食家であることも、この五年の間に知り得たことの一つだった。
 修一の店に重音がやってきたのは、ライブの打ち上げから三日後のことだった。あの時の喧騒が嘘のように、昼時の修一の洋食屋にはゆったりとしたボサノヴァ調の有線が流れ、父の時代からの常連客や、近所のママさん達や、ふらりとやってきたのだろうOLで席が徐々に埋まり、些細なお喋りの声が厨房まで届いてきていた。用意してあるランチの注文の仕上げをする。最初は手際が悪くて、料理の提供にも時間がかかっていたが、下ごしらえや手順を工夫することで、なんとなく早く出せるようになった。普遍になったランチを作りながら、フライパンや鍋の立てる音に集中していると、カランカランと店のドアに吊るした来客を知らせるベルが鳴る。アルバイトの水瀬奈々美の明るい「いらっしゃいませ」という声がして、いつものように厨房から顔を出してみれば、それが重音だったのだ。彼女は一人だったようで、奈々美の案内でカウンターについて、差し出されるランチメニュウを凝視していた。
 ランチの時間は忙しくて、修一は彼女がその時に何を注文したのかを覚えていなかったし、厨房から離れることが出来ず、なかなか顔を合わせることはなかったが、それでも重音は週に三回は修一の店を訪れるようになり、ランチだけでなくディナーの時間も足を運んでくれるようになった。
 馴染みの客となった重音はタイミングが合えば修一とよく言葉を交わし、アルバイトの奈々美にも顔を覚えられていた。ディナーを一人で食べにくれば、カウンターに座ったまま、酒や料理を頼んで閉店の時間までなんとなく居座って、片付けを終えた修一と別の店に飲みに行くこともあった。映画の趣味や、本の趣味が合ったことや、互いに家が近かったこともあって、五年の間に良き飲み友達になっていたし、知り合いのおっさんバンドや重音の友人のライブに二人で足を運んだこともある。
 修一が重音の偏食に気付いたのは、重音が店に通うようになってから、随分経った頃だった。
 ランチでサラダは食べない。付け合せの人参が必ず残されていて、時には貝類やデザートについてくるキュウイやバナナが綺麗に皿の端に放って置かれていた。居酒屋に出向けばお通しのナムルに手は出さず、修一の頼んだ料理は一定の確率で箸をつけなかった。大人数で食事に行くと、偏食癖を隠すためなのかなんでも食べたが、その代わりに時々能面のような顔をして曖昧に笑い、そうしてすぐに酒や水を目一杯に飲んでいる。修一の店でランチを注文すれば、ドリンクが一杯サービスになる。コーヒーか紅茶を選択出来るようにしているが、重音は決まって紅茶だった。コーヒーを飲んでいるのを見たこともない。
 偏食家であると同時に、重音はほとんど食に興味がないようだった。一緒に食事に行こうと決めた時、食べたいものを聞いてみれば、必ず「肉」と答える。肉っばかりだな、と修一が笑えば、「じゃあパスタとか、ラーメンとか」と大抵麺類を所望した。食材を調理することが仕事である修一は、社会人であり、振る舞いもそれなりに大人である重音の行動が不思議に思えて、ある日なんでもないことのように、彼女に質問を投げかけたのだった。丁度、その日も重音が修一の店にランチを食べに来ていた。大雨の日だったように思う。唐突なゲリラ豪雨のおかげで、いつもならランチを求めてやってくる客で埋まるはずの店内が随分と空いていた。
「もしかして、好き嫌い多い?」と、責める口調にならないように気を付けながら、修一は言った。すると重音は叱られた子供のような顔をする。
「なんでバレたの……」
「そりゃうちでランチしてるし、お客さんの傾向は見てるよ」
 何気なく告げると、重音は一層に顔色を悪くする。
「お恥ずかしい限りで。いや、本当に悪いとは思ってるんだけど」
「そもそも、重音は食に興味ないだろう。なんか、こう、とりあえず口に合うもの食べてる感じがする」
「仰るとおりだから、やめてー」
 注文したハンバーグプレートつつきながら、重音が恥じ入るように声を上げる。まるで子供のように好き嫌いをして、それでも大人であるから必死に隠している姿は、修一にとってなんとなく面白いものに思えた。そうしてふと気づくのは、他の店で残していた食材を、修一の出した料理なら場合によっては口にしているということだった。最初に言葉を交わした時の「助かります」は、おそらく調理法や味付けによっては、苦手なものでも食べられるということなのだろう。
 確認をしたわけでも、確信を得たわけでもなかったが、修一はそのことで何故か俄然とやる気が出た。偏食家が食べられるようなものを作ることが出来れば、料理人冥利に尽きるのではないか。あの打ち上げの日のように「美味しい」と重音は笑うのではないか。そんなことを考えるようになっていた。
 サラダを食べないから、きっと生野菜が苦手なのだろう。温野菜にして、ドレッシングをかけて出してみれば、重音は躊躇しながらもフォークを突き刺して口に運んだ。時々漏らすようになった苦手な食べ物を忘れずにいて、細かく刻んだり、風味が消えるほどに煮込んだりしてみれば、彼女は「美味しい」と笑う。いつしか修一の洋食屋には、重音用のメニュウが出来て、前日には彼女から来店をするかしないかの連絡が来るようになった。少しずつ、苦手なものを克服していく重音の姿が、なんだか餌付けしている猫のように愛くるしいものに思えてきて、修一がそのことに戸惑ったのは、二年も前のことだった。
 思い出しながら人参を刻んで、鍋に放り込む。食に興味の薄い重音は、朝食を摂らないと修一は知っていたが、先ほどの彼女の笑みを思い出せば、きっと食べてくれるのだろう。苦手なものをふんだんに使ったスープを用意して、トースターに突っ込んだ食パンの焼き加減を確認する。朝食に米ではなく、パンを選んだのは、そちらの方が見た目が軽いからだ。そうして、修一は思いついたようにシンクの向こうに並べてあるコーヒー豆を手に取った。店でも出しているコーヒーをドリッパーに適度に突っ込んでおく。ドリップスケールの上に置いたサーバーに更に乗せ、少し冷ました湯を注げば、途端に苦味のある芳醇な香りがリビングに漂っていく。重音にコーヒーを飲ませるにはどうすれば良いか。考えながら、微妙な鼻歌まで溢れていた。

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 洗面所から重音が戻ってくると、彼女はすぐに鼻をヒクつかせて「コーヒーの匂いがする」と顔を顰めた。起き抜けのだらしなさはなくなっていて、半開きで乾いた唇も潤っていたし、変な方向に跳ねていた髪も真っ直ぐに整っている。普段見ていた重音の姿がそこにはあり、それでもこの場所が修一の家のリビングで、彼女が着ているのが修一の服であることに、些細な関係性の変化を示唆されているような気がした。かといって、五年も気心の知れた友人であったのだから、女性に抱くような気恥ずかしさはあまりない。重音を抱いたことも、多少乱暴に重ねた唇も、なんだか昨夜の夢のような感覚だ。それでも、彼女がここにいる以上、それは事実であり現実でもあった。受け入れやすい妄想のような現実だ。
「なんだか至れり尽せりじゃない?」と、修一に促されるままにダイニングの椅子に腰掛けた重音は、目の前に置かれていく朝食プレートを眺めて笑った。
 きっちりと半分に切られたトーストにバターはたっぷりと塗られていて、炒り卵とベーコンが添えられていて、スープカップのコンソメの匂いが鼻を擽る。修一が淹れているのだろうコーヒーの匂いが、時々混じるように室内に広がって、朝のニュースがぼんやりと流れている。平和な朝だ。どこにでもありそうで、しかしドラマのようにも思えてしまう穏やかな朝だ。
「女の子って、そういうの好きだろ」
 修一は感嘆する重音に肩を竦めてから、テーブルを挟んだ向こう側に腰を下ろす。重音よりも少しだけ分量の多いプレートが、彼の前にも鎮座していた。
「もう女の子って齢じゃないけど」
「じゃあ、女性ってそういうの好きだろ」
「えー、どうかな。なんかちょっと申し訳ないし、女としてなんか負けた気分」
「重音より、僕の方がしっかりしてるからなあ。収入も生活態度も」
「くそっ。じゃあ洗濯物は私が干す」
「一緒に干せばいいだろ。その方が後の時間を有効に使える」
 軽口を叩き合いながら、二人で揃って手を合わせる。冗談みたいな揶揄はいつものことだったが、いつもは重音のいただきます、を修一が見ているばかりだったからか、なんだか新鮮な気分にもなった。
 案外こざっぱりとした重音の態度が、やっぱり修一は気に入っていた。女性経験が少ないかと問われたら、おそらく修一はノーと答えるぐらいには自負もある。女を自宅に呼ぶと、大抵の恋人は修一より遅く起きる。仕込みの時間に目が覚めてしまう修一より早く起きる人は、あまりいないからだ。服を用意して、朝食を用意すると、女の子が喜ぶことも知っていた。案外修一は人の面倒を見ることが好ましいと思うタイプであったし、裏を返せば自身のペースが崩されないことに安堵を覚える性質だ。その反面で、ありがとう、と声を弾ませる女の子は、そうして甘やかすと自分では何もしなくなる、と修一は思っていた。悔しいなんて言われたことはなかったし、まるで当然のように受け入れて、暫くすると家事も仕事も修一がするのが当たり前のような顔をする。そうなると、途端に冷めてしまう。生活に歪みが出来てしまって、何かをしてやろうなんて気持ちは消えていくのだった。
 朝食を摂らない主義の女の子に「要らない」と突っぱねられたこともある。色々面倒になって、結局破局したわけだが、重音はそうでなくて心底安心していた。料理ではどうしたって修一に勝てないと知っているから、洗濯物を干すことを選んだ重音の思考が透けて見えるようで、それも面白かった。
 いつもと同じような仕事の愚痴や、互いの友好関係や、今日は何をしようか、と話しながら朝食を食べていく。
 重音はトーストを齧るのが下手くそで、乗せた炒り卵をプレートの上に落としたりしながらも、美味しい美味しいと笑ったが、ふとスープカップを引き寄せると、ぐっと眉を寄せる。重音の苦手なものばかりが入っているスープの具を片手にしたスプーンでつついている。
「……これなに」と、彼女は浮かぶ赤色や黄色の野菜を眺めて、そっと呟いた。
「パプリカ。見たことない?」
「これが、噂の」
 じっとスープを見つめながら、繰り返すように重音の唇が「ぱぷりか」と声にならないように動く。なんだか得体の知れないものを眺めている猫のような仕草で、修一は肩を揺らした。
「ピーマンの派生みたいなやつ。スーパーでも売ってる」
「赤ピーマン的な……?」
「ああ、そう。そんな感じ」
「つまり、ピーマン」
「ちゃんと食べられるようにしてあるから大丈夫だって」
 どんどん能面になっていく重音に修一は苦笑する。生野菜が駄目な偏食家に、ピーマンはおそらく敵なのだ。苦くて、噛むと変な気持ちになって、食べ物を舌が認識しない。五年間で知った重音の主な主食は肉と米と穀物で、おそらく自身でも料理をするのだろうけれど、栄養は気にしない。スーパーに行っても野菜コーナーなんてきっと見ないのだろう。音楽や読書には偏食がない癖に、食べ物にはしっかりと好き嫌いがある。誰とでも笑い合うくせに、野菜如きに嫌だという顔をする彼女が、不思議となんだかとんでもなく可愛いものに思えた。
 重音はスプーンを握ったまま、暫く思考が停止したようにじっとパプリカを見つめていたが、一度修一の顔を心配そうに見上げてから、意を決したようにスープへとスプーンを突っ込んだ。浮き上がる赤いパプリカを掬い上げ、スープと一緒に口の中へと放り込む。怖いものにチャレンジする子供のような顔をして、真剣に咀嚼を繰り返し、そっと喉へと流し込む。その姿を一緒にスープを食べながら、修一は満足気に眺めていた。
「……美味しい」
「でしょ」
 信じられないと、まるで奇跡でも見たように重音は呟いた。大丈夫だ、と分かると重音の食は進む。二口、三口とスプーンが動き、勤勉な動きでスープを食べる。興味が薄い割りには、美味しいものには敏感で、自分の口に合うものは、気まぐれに好物になるのだ。そうしてその間、修一が話しかけない限りは口を開かずに、じっくりと食を堪能するのも重音の特徴でもあった。
 スープの一滴までを飲み干して、重音がようやくスプーンを置く。ご馳走様でした、とまた二人揃って手を合わせると、彼女は嬉しそうに頬を緩ませた。
「修一は、なんていうかこう、甘やかし上手だよね」
「いきなりどうした?」
「だって、お店でもいつでも、私が食べられるようにしてくれるでしょ。いつもより多く煮込んだり、細かくしてくれたりして。工夫っていうのかな。あんまり料理しないから分からないけど、多分レシピとかの普通よりも、ずっと気を遣ってくれてる」
 頬を緩ませたままの重音に、修一は少しばかり驚いていた。食に興味がなくて、好き嫌いが激しくて、修一とは全く異なる重音が、案外色んなことを見ていることに、少しだけ目を瞬かせる。そうして思い起こすのは、はじめて会った時、彼女だけが修一の料理に興味を示していた事実だった。知り合っていくうちに、この子の偏食を治したいと押し付けがましい願望を抱いたのは、きっと自分の仕事に対するプライドや、それ以上に栄養も気にせずに好きなことだけをしている重音の世話がしたかったからなのかもしれなかった。仲間といると無理をして、ご飯を食べる重音に美味しい、と何かを頬張って欲しかったのかもしれない。
 胸中にぐっと満足感が広がっていくのを自覚する。そうして妄想のような昨夜の事実が、現実で良かったのだと、ようやく実感した。



 二人で食器を片付けて、洗濯機が止まるまでリビングのソファで今日の天気予想を見ている重音にコーヒーを飲むか、と聞けば、即座に「要らない」と返ってくる。苦味も酸味も苦手だ、という彼女が、紅茶が好きなことは知っていたが、生憎今日は用意をしていなかった。芳醇な豆の香りが湯に溶けて、じっくりと室内に広がっていて、修一はカップを二つ用意した。ドリップスケールの上に置いたサーバーには、きっちりと二杯分のコーヒーが落ちている。
 どうしようか、と考えあぐねてから、修一は重音を呼んだ。なぜか天気予報を真剣に見ていた彼女は振り返り、不思議そうな顔をするもので、修一は小さく彼女を手招きする。
「僕はさ、恋人と一緒に、朝にこうやってコーヒーを飲むのが好きだったりするんだけど」
 お互いの忙しい身の上を考慮して、時間を相手のために割くのが、修一にとって不変的な幸福だった。何も変わらない毎日に、前の日の夜から肌を合わせたり、顔を合わせたりした女性がいるというのは、些細であるのに修一を幸せな気分にさせる。偏食家の恋人は、唐突な修一の言葉にリスのように目をくりくりとさせていた。
 そうして、彼女はシンクに置かれた二つのカップを眺めてから、なんとなく修一の言いたいことを理解したように頷く。
「私はさ、自分の好みに口煩い男はあんまり好きじゃない」と、彼女はさも真剣な声で言った。
 それは重音の真実だった。自身が偏食であることも、食に興味が薄いが故に好みのものばかりを口にしていることも、音楽の趣味もフリーターと名乗っていることも、全ては自分で決めたという自負がある。今まで付き合った男は、大抵重音の偏食を一度は詰った。食べれないものを見つけると、根拠のない美味しいで口を開かせようとする。相手は親切のつもりであっただろうし、悪意があったわけでもないのだろう。それでも、重音はなんとなくそういう強制が好きではなかった。栄養が偏るから。体を壊すから。夜も昼も働いて、自分達の時間は何処で作るのか。体に悪いことばかりをして、本当にどうしようもない。恋人になる男の九割は、必ず付き合っている内に、そういうことを言うのだった。
 自覚していることを指摘されるのは、なんだか強いられているようで重音は疲れてしまう。改善しようと無理矢理口に含んだ苦手なものは、どうしても美味しいと感じることが出来ずに思わず眉を寄せてしまう。そうすると、親切な相手は気落ちしてしまう。「仕方ないね」と笑う過去の恋人が、自身の力不足を恥じ入るような笑い方をするのも、なんだかずるいと思えたものだった。
 重音は自身のことを、子供のような癇癪持ちだ、と自覚している。大人になっても偏食家であり、悪食であるなんて、女として終わっているのだと思っていた。
 しかし、目の前の修一は、どうやら重音が過去に出会ってきたどんな男とも、また違う親切を持ち合わせている。はじめて出会った日に食べた彼のコロッケは、実は重音の苦手なものばかりが含まれていたにも関わらず美味しかったし、彼の作るランチは通うごとに重音の食べやすいものに生まれ変わっていく。話してみれば、趣味が合い、馬が合い、友人になるのは簡単だった。そうして五年間の友達を続けた結果に見えたのは、修一がとことん世話焼きでありながら、それが決して自分にとっての嫌な気持ちをもたらさないという驚きだった。
 修一は重音にとって、苦手を好きに変えてしまう天才のような人だった。
 好きだと囁かれることが嬉しくてたまらなくなったのは、いつからだったのだろう。重くのしかかる体躯や、昨晩の修一の息遣いが心地よく、起きてみれば世話を焼かれてばかりだというのに浮かれている。
 重音の厳しい口調に、修一が少し傷ついた顔をしたことに気づいて、少しだけ笑ってしまうのは、そんなことをわざわざ口にしなくてもいいのに、という揶揄からだ。
「でもね、修一が淹れてくれたなら、コーヒーでも飲める気がするんだよね」
 苦手なものが、彼の料理なら食べられる。それは積み重ねられた証明があるもので、重音は現実的な経験で信頼をもって、そう言い切ることが出来た。それに修一は、重音に強制をするのではない。言葉にする前に、先に料理を差し出してくるのだ。
 にっと口角を上げて笑うと、修一はすぐに言葉の意味を理解したのか、ほっと胸をなで下ろした。
「驚かさないでくれ」
「だって、あんまりにも真剣に言うから」
「昨日の今日で、いきなりフラれるかと思った」
「どれだけ人のことを薄情者だと思ってるの。そんなすぐにお別れするなら、そのまま友達でいたに決まってるじゃない」
 まるで悪戯の成功した子供みたいに笑う重音を横目で見ながら、鍋にかけていた牛乳の火を落とす。軽口ばかりで弾む会話は、友人の頃からあまり変化はしていない。それなのに、重音の言葉には、修一が思っていた以上の信頼や愛情が込められているように聞こえてしまって、その度に修一は自身を叱る。浮かれているのだ。年甲斐もなく、捉え方によってはお節介な修一を丸ごと受け入れて笑う重音に浮き足立っている。まるで中学生みたいだ、と心の中でそっと自身を嘲笑しながら、修一は半分だけコーヒーを注いだカップに、沸騰する前にコンロから離した牛乳を注いだ。
 その様子を眺めていた重音が、心持ちわくわくとした表情で修一を見上げた。「私でも、飲めるコーヒーがあるのかな」と、苦味のある匂いに鼻を寄せるにように言う。
 コーヒーなんて、はじめて見たわけでもないだろうに、重音はまるで未知の飲み物でも目にしたかのように声を弾ませていた。
「まずはカフェオレからだね。じっくり慣れてけば、そのうち飲めるようになるよ」
「よし、じゃあ信じてみよう。今日はピーマンも食べられたしね」
「パプリカな。あと人参も」
「人参は修一のとこのランチなら克服済みだし」
 話しながらハチミツを淹れて、軽くかき混ぜてから重音へとカップを差し出す。サーバーに残った半分を、もう一つのカップに注ぐとじんわりとしたコーヒーの香りが余計に強くなる。二人でカップを持って、リビングのソファに戻ると、テレビの中の天気予報は終わっていて、今度は明るい笑みを浮かべるキャスターが街に繰り出してリポートを繰り広げている最中だった。並んで腰掛けながら修一も重音も、ぼんやりとその様子を眺めてから、手に持ったカップを口へ持っていく。
 少し冷めたコーヒーが口内に広がって、喉を通っていく。修一はブラックが好きだったから、そのまま口の中にはコーヒーの苦味や程よい酸味が残っている。一人でいる時の、仕事に行く前と同じ味の朝のコーヒーだ。自分で淹れたにも関わらず、何も変わらずに不変的に美味いと感じて、納得してから、ちらりと両手でカップを持っている重音を見た。コーヒーが苦手な偏食家のための工夫は、甘くしてたっぷりと牛乳を注いだことだけだ。薄まっていたとしても、彼女の敬遠する苦味が消えたわけでもないだろう。
 昨晩重ねたばかりの唇が、そっとカップの中のカフェオレの中へと消えていく。おずおず、と小さく傾けたカップから、苦手なものを口に含んでいく。こくり、と小さく喉が動き、そうしていつの間にか緊張した面持ちで、彼女を見つめてしまっていた修一と視線を合わせ、重音はにっと笑って見せた。
「うん。美味しい」
 穏やかな朝のはじまりが、すんなりと修一の中へと実感をもたらしていく。
 空調の効いた修一の家で、時々重音が一緒に目覚めるようになると、彼女が決まって、朝一番のコーヒーが飲みたい、と強請るようになるのは、もう少し先のことだ。
 苦味のあるコーヒーが喉を通る度に、ああ、今日も穏やかな朝だ、と修一は些細な幸福感を得る。