減らないコーヒー
朝。部屋は真っ暗。布団が起こす衣擦れの音と私が呼吸する音以外は無音。いくら関東といえど、今は2月。北窓のこの部屋は雨戸を閉めないと夜は寒くて寝れたもんじゃないので、習慣のように雨戸と分厚いカーテンを閉めて就寝するから部屋に日光は差さない。手探りでサイドテーブルに置いた眼鏡を取りかける。部屋は真っ暗だから眼鏡をかけても視界が変わることはないけど、なんとなく電気をつける前に眼鏡をかけたくなる。寒さと眠気を振り払い布団を剥ぎ立ち上がる。床は背筋が凍るほど冷たく一刻も早く布団に戻りたいと願うが、それではだめだ。スリッパスリッパ……あぁ寒い。真っ暗な部屋を壁伝いにして部屋の電気のスイッチを入れ、天井の素っ気ない蛍光灯が無機質な光を灯す。そうしたらベッドが2つ並ぶ10帖の部屋がパッと照らされる。北側にこんな窓必要だったのか、と疑いたくなるような大きな窓を覆う薄緑のカーテンを大きな音を立てて勢いよく開けて、窓ガラスが見え、その向こうに濃い茶色の雨戸が見える。夜は暖房もつけてたので空気が悪いし、換気のためにもこの窓を開けなきゃいけないけど……寒いんだから開ける気にもなれない。寒い日は毎日こうやって窓の前で自分と戦っているのだ。意を決し、鍵のノブを下に回し息をつく間もなく窓をガラっとカーテン同様勢いよく開け放ち冷たい金属の雨戸に手をかける。ここで立ち止まってしまったらこの部屋に朝日が注ぐことはない、頑張れ私一呼吸の間にこの雨戸を上げるのだ____!
ガラッ。勢いをつけたのでカーテンや窓を開けたとき以上に大きな音がする。私は今寒さから逃れるという人間の本能に打ち勝ちこのカーテン、窓ガラス、雨戸を開けることができた。きっとこれは人類史に残るであろう素晴らしい出来事だ。人類がまた1つ不可能の可能にした。
…………と、私の朝はやたらと壮大に始まるのだがこれは夫の影響。あの人の書く雄大な冒険ファンタジーを読み漁った私は、全ての事柄に冒険を見出したくなる。ベストセラー作家が夫というのがかなりのレアケースだが。私は市立の大病院勤めとはいえたかが看護師、女としての魅力も薄くしかもかなりの年の差と結婚しようと思ったのだろう。私とあの人の馴れ初めを思い返してみれば、その答えの鱗片でも掴めるだろうか。
出会いは私が高校生の頃、あの人は教師と小説家を掛け持ちしてていたから学校には週に1度か2度しか顔を出さない非常勤の国語科教師で、私は3年生のときに先生が古典の担当でなぜかわからないけど惹かれるものがあったので担任でもないのに進路のことについてかなり相談にのってもらった。あとは私が所属していた居合同好会にたまに顔を出して指導をしていただいた。それでその後は、私が第一志望に合格して無事卒業して大学に進学すると同時にあの人は教師をやめ、それ以来会うことは2度と無いと思っていた。私が受けた大学は横浜にあったので、先生は銚子の高校の近くに住んでるらしいと聞いてもう会うことはないんだな、と思っていた。実家の銚子を出てアパートで一人暮らししてたし、距離も離れたことで実際2年間ぐらいは会わなかった。つまり2年後に再開した。私が高校を卒業してから2年、私立大学の2年生のとき住んでた横浜のアパートが突然取り壊しになって仕方なく銚子から学校まで通学していたのだが、それではやはり不便なので前に住んでたアパートを紹介してくれたチェーン不動産屋さんに行ったときのこと。全国展開してるから、銚子にいながら横浜の物件情報を知れたからかなりお世話になった。あの人と再開したのはそのときだ。
あの人は自分の家を売り払おうとしていたそう。妻と離婚し娘を持っていかれ、自分の父が建てた大きな庭付きの一軒家は1人で住むには大き過ぎるから、と言っていた。そのときに家の写真を見せてもらって、こんなかわいい家を誰かに譲っちゃうなんて勿体ないと私が言った。私とあの人がお互いを教師と生徒ではなく、1人のおとことおんなとして意識し始めたのはその日からだったと思う。
その日から色々あって、ある程度長く交際してるうちに私は成人して、もちろん一線だって越えたしあの人の家__今は私とあの人の家__でプロポーズされて、なんだかんだで幸せだった。
____なんで私はあの人との馴れ初めを思いだしていたんだ。いや、きっと何か意図があったんだろうけど、その意図ってなんだっけその意図はなんだ5分前くらいの私。でも忘れるっていうことは多分どうでもいいことだから気にしたら負けなのかもしれない。そうだ、気にしたら負けだ。今日は非番だからゆっくりしてていいんだせど折角いつも通りの時間に起きたんだから充実した休日にしたい、眠気覚ましにコーヒーでも飲もう。
寝室は2階でリビングダイニングは1階、常夜灯が薄らと照らす緩やかな螺旋階段を降りたらコーヒーを飲むという目的の前に居間に行く。南側の窓を開けて朝の光を部屋に入れないと朝になった気がしない。寝室と違い雨戸は開けたままでカーテンだけを閉めているので、寒さと格闘することも無く夜明けという今日最初の大仕事をしている太陽の恩恵を受けることができる。お日様あったかい……。
30畳を超えるであろう部屋が一気に明るくなり柔らかい茶色と緑で統一された家具とクリーム色の壁を照らす。リビングとダイニングが続きになっているのでキッチンと繋がる半分をリビング、窓に近い方をダイニングとして使っている。私が結婚前に一人暮らししていたアパートは、6畳間に風呂トイレキッチンがついた実に簡素なものだったから、このリビングだけで暮していけるのにといつも思う。____昔のあの人みたいに、売り払おうなどは一切考えてない。そんなことするわけないでしょう?
キッチンにはダイニングから遠く、大窓から入る光は大して入らないが、勝手口にすりガラスの窓があってそこから差し込む光と、キッチンに立つと丁度目線の下にある通気用の小窓が周囲をぼんやりと照らす。ちゃんと料理をしようと思ったらこの明るさだと少々心許ないが、コーヒーを淹れるくらいだったら充分過ぎる。
鍋類を仕舞ってあるラックからポットを取り、水道水を勢いよく注ぐ。紅茶の場合はこうした方が水に空気が含まれて美味しくなるらしいとワイドショーで見たが、コーヒーはどうなのだろう。やはり空気を含んで軽くなると美味しいのだろうか。普段眠気覚ましにしかコーヒーを飲まない私にとってのコーヒーは、眠気覚ましであり嗜好品とは言えないので味にはめっぽう疎いし、100円と5000円のコーヒーの違いも多分わからなだろう。決して味音痴というわけではないが、コーヒーの味は本当にどれも同じにしか思えない。
ポットが水道水でいっぱいになったら普段から綺麗に保ってるコンロに置き、手をコンロの奥へと伸ばし元栓を開く。そしたらノブを思いっきり回して少し屈んで点火を確認したら強火のまま手を離す。あ、換気扇つけないと。
お湯が沸くのを待つ間に食器棚へ向かい、あの人が取材にどっかへ行ったときのお土産のコーヒーカップを2つ取り出す。私と、あの人の分。シンクにカップを置いたら、香辛料と一緒のラックに入れてるコーヒー粉末の瓶を取り出す。これはあまり美味しくないとの評判だが、濾したりせずにお湯を入れるだけでいいので、味を気にせずカフェインさえ入っていればいい私にとってはとても都合が良いので長年こればかりを飲んでいる気がする。瓶の中に入れっぱなしにしてるスプーンで1杯ずつカップの中に入れて、このスプーン1週間くらい洗っていないのでそろそろ洗いたくなったから流し台のたらいに入れる。今日は朝ごはん作るのも面倒だから、昼に出た汚れ物と一緒に洗おう。瓶の蓋を閉めて元の場所に戻して、振り返ってシンクに軽く腰掛ける。ふぅ、と無意識に零れた吐息はどこからきたのだろうか。
あの人と結婚してから何年経って、あの人と____いや、まだ''終わって''はいない。終わっていないから結婚記念日だって何年も何年も積み重ねるし、もし終わっていたのだとしたらこの薬指にはめた指輪なんか意味が無くなってしまう。だめだだめだ、その話は考えちゃいけない。頭をぶんぶん振って、まだ体温が上がらない冷たい手で両頬をパチンと叩く。変なことを考えるのはもうよそう。
____ピィィィィ!!
「あ、お湯……」
そうこうしてる間にお湯が沸いたことを知らせる、ポットについた笛が鳴る。ステンレスの本体とは別でも火に宛てられじんわりと温まったプラスチックの取手を握り、目分量で2つのカップへ湯気の立つお湯を注ぐ。コーヒーの香りが鼻をくすぐる。カップ2杯分のお湯を吐き出したポットの中に少しお湯が残っていたけど何かに使えそうな程量も無かったので流し台に流す。誰かが流し台の裏から叩いてべコンッべコンと音がした。
私はカップを2つ持ってリビングの机に置いて、ピンクのクッションが置いてある椅子に座ったらカップの1つを自分の方に寄せて、もう1つはグリーンのクッションが置いてある向かいの椅子の方に滑らす。
「おはよう」
向かいの椅子……傍から見れば誰も座っていない椅子におはよう、と挨拶をすると、窓を開けていないのにダイニングのカーテンが少しだけ揺れた。今日も、あなたは確かにここにいる。
椅子に座ってるのか部屋を歩き回ってるのかわかんないけど、確かにここにいる。
コーヒーが減るのは私が持っている方のカップだけでもう1つのカップは減らずに冷めてくばかりだけど、確かにここにいる。
おはよう、私の愛する人
おはよう、私の愛した人
おはよう、もう二度と触れられない人
おはよう、かつてはそこに座っていた人
おはよう、死んじゃった人
熱々のインスタントコーヒーを冷ましながら啜る朝7時。そこにはいないけど、確かにいる大切な夫との何気ない朝はゆったりと過ぎていく。