野うさぎとハイヒール

 知らない天井、コーヒーの香り。
 ぬったりとした闇の濃淡を、山間から昇る朝陽が端から引っくり返していく時刻。触れるものすべてを裂くように冷えた冬の空気が、カーテンの隙間からふんわり漂って、寝惚けている瞼や覚醒している鼻の頭を撫でる。寒いな、と太腿を擦り合わせてから寝返りを打つと、キッチンに立つ背中が見えた。ちょうどファンヒーターも唸り出し、恐竜の寝息みたいな音を立ててから轟々と燃え始める。天井も、横っ面を埋める枕も、ここが誰の部屋であれは誰なのかすらも、まるで知らない。
 まどろみを吸って重たくなった腕をのろりと上げて、こめかみから頭蓋に響く痛みを宥めるように擦る。二日酔いだ。やってしまった。現況を鑑みるに、この二言で説明は事足りるように思える。昨晩はずいぶんと無茶な飲み方をした。そういう心境だったのだから、仕様があるまい。女は、他人に愚痴をこぼすことでフラストレーションを発散する傾向があるそうだが、女にも、愚痴だけでは飽き足らない事情が無数にあるもので、まさしく、昨晩がそうだった。独りで飲みたい気分だった、悪酔いする予定ではなかっただけで。
 数々の弁解を酒が残った頭で構想するが、思考力が低下しておりままならない。切り抜ける方法も模索する、けれども具体案は浮かばない。まだ室内も充分暖まらない中、キッチンでコーヒーを淹れているのだろう青年に、振り返らないでくれと念を送る。もう少し……もう少し。心の準備と、きみに対する的確な謝罪を用意するまでは、いったいどんな風貌をしている男性なのか、わたしに知らせないでくれと彼女はひたすら念じた。今なら、スプーンだって曲げられる気さえしている。
 だが、女はゲラリーニではなく一般人女性であって、銀のスプーンを曲げる念力は持っていない。無慈悲にも、男の細いシルエットがくるりと反転する。痩せているなと思った。スウェットの襟から突き出る首が、鶏がらみたいに細いのだ。横から刺激を与えるだけでぽっきりいってしまいそうな首の上に、これまた小さな顔がくっついている。童顔だ。つぶらな瞳、太い眉──小動物を連想する。子犬、子猫、ハムスターや、うさぎ。さらに、少しずり下がった眼鏡のレンズは大きめで、全体的に野暮ったい。学生服を着せても、成人男性の仮装とは思えないだろう。
「あっ、おはようございます」
 人畜無害そうな顔をして、発する声音は低くて掠れていた。
「昨晩、とても酔っていたみたいなので。その、起こさないように、と思ったんですけど。ごめんなさい、うるさかったですよね、食器のぶつかる音」
「いいえ、あの、おかまいなく」
「いえいえ、そんな。せっかくですからコーヒーでも……あっ、胃もたれとか、頭が痛いとか、ありませんか? コーヒーよりお水のほうがいいかな」
「だっ、だいじょうぶで……っつう……」
 大丈夫ではなかった。先の尖った硬質の何かで、こめかみを抉るように攻撃されている。女は痛む箇所を押さえながら呻いて、仰向けになった。店で潰れるまで飲んだ挙句、行きずりの男(と思しき何者か)の部屋に転がり込んで、早朝から迷惑をかけている有り様が、酷く情けない。……と、そこまで恥じてから、女は弾かれたように布団を持ち上げ中を覗いた。服を着ていた。昨夜、退勤してからアパートで着替えたパンツスタイルのままだった。
「あの、あの。わたし、何か粗相をしでかしたりは」
 酔い潰れて絡んだだけでも「粗相」の範疇だが。
 すると、ベッド脇までやって来た青年は、困り眉をしながら微笑んだ。
「たぶん、あなたが心配しているような事態には、なっていないと思います」
 服を着てるでしょう? 女は油切れを起こした機械のように、ぎこちなく頷く。
「意地でも帰らないって、お尻に接着剤でも塗ってあるみたいに動いてくれなかったんです。代わりにタクシーを拾って、お送りしようかとも思ったんですが、頑なに「今日は絶対帰らないっ」とそっぽ向かれちゃったので、まあ、成り行きで」
 女は再び呻いた。
「とんだご迷惑を……」
「そんなことありません。逆に、僕のほうが助けられました」
「えっ」
「昨日、上司に捕まってあの店にいたんです」
「まさか、わたしが邪魔を」
「まあ……はい」
 最悪だ。女はもっと呻いて、遂には布団の中へ潜ってしまった。
 聞けば昨夜は、青年も「ツイて」いなかったそうだ。普段から小言の多い上司が、虫の居所が悪い状態で部下たちの腕を攫い、行きつけの居酒屋に入ったという。三十分ごとに、一人、また一人と後輩たちは店から脱出し、最後に彼だけが取り残されてしまった。毎度、貧乏くじを引いてしまう性質だそうだ。成る程、と女は納得する。押しに弱そうな雰囲気を漂わせている。肉食獣の前に放り出されてしまった野うさぎに、少し似ている。
 坂道の上から、下にいる彼に目がけて大岩を転がすみたいに、ごろごろと、物騒な単語を雑多に絡めた批難が部下に何度も衝突し、そろそろくたびれそうだと泣きが入りかけたところで割り込んできたのが、身元も知らない謎の女性客だった。彼女はその時点ですっかり出来上がっており、正直なところ「関わってはいけない類」の人間であるように思えた。「あ? なんだ、失礼な女だな」上司はとっくに喧嘩腰、酩酊状態であるらしい女性と取っ組み合いにでも発展したら、社名に泥を塗りたくった挙句におそらく解雇である。最悪の事態とその末路を、瞬く間に脳内で走らせた青年は、即座に女性客を追い払おうと席を立った。だが、女は野うさぎを通り過ぎ、あろうことか野うさぎを背に庇いながら、牙を剥き出しにしている中年太りの肉食獣を叱り付けたらしい。女は野うさぎより、背が高かった。
「そこからはもう、あなたの独擅場です」
「なんとなく、思い出してきました」
「部下を鍛え一人前にする立場の人間が、年齢にかこつけて後輩をサンドバッグにするとはどういう了見だ、と見事な啖呵の切りようで。店内も大喝采でした」
「お恥ずかしいです、本当に……」
「うちの上司が逃げ帰ってからも、あちこちの席に赴いては肩を組んだり説教をしたり。必然的に、僕が顔見知りだと思われてしまっていたので、あなたが満足するまで残っていたら、こんな状況に」
「重ね重ね、どうお詫びをしたらいいものか」
「いえ、助かったのは、本当なんです。月曜から、ちょっと怖いけど」
「しかも、ベッドまで借りてしまって」
「よく眠れたようですから、それはちっとも気にしてません」
 女は、鼻から下を布団で覆い隠しながら、にこにことしている野うさぎを窺う。青年は微笑んでいる。困り眉が弓なりに戻り、素朴な笑みからも、迷惑ばかりの夜ではなかったのだと確信が持てた。だが、初対面の人間に対する態度ではなかった。女は起き上がり、ベッドの上で深く頭を下げ、ごめんなさいと言った。青年はそれに応えた。──コーヒーは飲めそうですか、と。


 ブラックなら飲めますと言った。だがそれは嘘だ。
「今から惨めな女の話をしますけど、聞いてもらっても構いませんか」
「僕でよければ」
 正方形のガラステーブルに、マグカップが二つ。コーヒーの水面は濃い色をしている。クリープも砂糖もいらないと言ったが、本当はどちらも二杯ずつ入れる。嘘を吐いたのはいわば反射の一種である。女は、すらりと背が高く顔立ちも端整で、その容姿を付加価値とするかのように、己の意見を口にすることを厭わない性格だった。レースをあしらった少女趣味のスカートではなく、コンクリートすら砕きそうな尖ったヒールが似合う。声だって高くもなく、中性的。甘いお菓子より、ビールとおつまみ。イメージをコントロールして生きてきた。
「うちの上司もね、お世辞にもいい人とは言えないような男なんです。仕事ぶりは雑で、部下に好かれているでもない。既婚者で中学生の娘さんがいるらしいですが、反抗期だから目も合わせてくれないって毎日同じ愚痴を言ってる。誕生日に強請るプレゼントが毎年高くなっているとか、休日に家族サービスをしないと母親を味方につけて説教するとか。古臭い考えをする男で、奥さんや職場の女性にも横柄な物言いをしたりする。……あけすけに言えば、嫌われてるんです、うちの上司。そんな人間だから、大きい失敗をしたときに、力を貸してくれる仲間は誰一人いない。結果、その男が選んだのは手近にいた部下の女でした」
 爪でカップを弾く。陶器が、キィンと澄んだ音を響かせる。
「その部下は、男の愛人だったんです。気に食わない男だと、入社してからずっと毛嫌いしていた筈のそいつに、強引に迫られて関係を持ってしまった。愛着だってない、未練だってない、いつだって別れられると思っていたのに、女は次々と男に塗り替えられてしまった。男は、派手な格好が似合うその愛人を気に入っていました。自分の趣味、思想を押し付けると、そのとおりに染まってくれるのが愉快だった。女も、そういう扱いを受けるのには慣れていたので、反発する気も起きなかったんです。けれど、それが間違いでした」
 女は息を吸う。青年が「間違いとは?」と尋ねる。
 彼女は自嘲的に笑い、口許が歪んだ。
「上司のミスは部下の責任──女はクビになった」
「反論しなかったんですか?」
「俺の代わりに会社を辞めろ、さもなくば不倫していたことを周囲に暴露するぞと、面白いことに逆に脅されてしまったんです。高圧的にされて、尻込みしたわけじゃありません。誓って、それだけは違う」
「では、どうして」
「関係を断ち切りたかった。しがみつくだけでは、きっと、一生を駄目にしてしまう。周囲の目を優先し、イメージをコントロールしながら生きてきたけれど、きっと、それは自分のためにはならない。自分の生き方ではない。だから、男の脅迫に屈したわけじゃない、あの男の理想を叶えてやったわけじゃない。これからの自分を誤魔化さないために、組み上げた積み木を、全部崩してやったんです」
「崩して、どうなりましたか?」
「何も残りませんでした」
 虚しさが、胸に広がる。これを直視する勇気が持てず、昨晩は飲みに出かけた。
「友人たちとは疎遠になりました。恩師にも軽蔑され、わたしという履歴は、もう、誰のところにも残っていません」
 カップに触れる。程好く熱が抜けていたので、輪になった取っ手をつまむ。ブラックも飲める、飲めるようにした。そうすることで、女は理想を叶えた。だが飲めるというだけで、美味しいと舌が喜ぶかどうかは別である。女は眉根を少し絞った。やはり、コーヒーは苦いよりも甘いほうが好きだった。
「……。わたし、好きな人と飲むコーヒーに憧れていました」
「コーヒーですか」
「朝起きて、彼でも、わたしでも。どちらでも構わない。キッチンにいる背中に向かって「おはよう」と寝惚けながら挨拶をしてみたかった。眠っている恋人を揺すって、起こしてあげて、コーヒーができてるよって、笑いかけてみたかった。少女趣味ですよね、今時、こんな妄想を語るなんて痛々しい人間かもしれません」
「そんなことは」
「ありがとうございます。でも、本当に、夢でした。あの人とはできなかったから」
 ふと横を向き、窓辺を眺める女の瞳には、すっかり色褪せた愛人時代の風景が蘇っていた。露見しないよう、慎重に慎重を重ねていた。日が明るいうちは、顔を合わせても単なる上司と部下。いっそ嫌っていたのだから苦ではなかったが、その分、日が沈んでから恋人のように扱われることが苦手だった。二人で朝を迎えられる筈もない、相手は既婚者で、子どももいる。専らホテルを利用し、自分ではないあらゆる匂いを移されて、空の色が黒から白へひっくり返らないうちに帰宅する。夜明けのコーヒーは、いつも独りだ。淹れるのも、飲むのも。
 女が再びコーヒーを飲もうと手を伸ばすと、不意に青年の手が被った。触れたわけではない。動きを止めようという意思が感じられた。どうしたのかと様子を窺うと、彼の眼球がうろうろと動く。躊躇いが滲んでいる仕草が数秒続き、やがて、彼は言った。「あなたが、自分自身を抑圧していたように──」
 途切れた言葉の続きを待った。青年は顔を上げた。
「あなたに見えていた相手の男性も、ほんの一部でしかなかったのかもしれない」
「側面であった、と?」
「確かに、善い人……だとは、すみません、他人の僕でもそうは思えない。あなたにとても酷いことをしている。けれど、娘さんにとってはちゃんと「お父さん」だったんじゃないでしょうか。家族にも嫌われているような男なら、誕生日プレゼントを期待したりするでしょうか。休日にどこかへ連れて行ってほしいと思うでしょうか」
 女は目を見開く。
「多くの人間に忌み嫌われているとしても、家族にとっては、やはり「家族」だったのではないでしょうか。もちろん、あなたを消沈させたその男は、悪です。あなたにとっては、悪でいい。なのに、彼を責める気持ちをぐっと堪えて、自分のための選択をしたあなたは、立派だと思います」
「そんな美談ではないんです。わたしはただ、振り回されたくなかっただけで」
「それでも、ご友人たちを失ってまで、ご自分を貫く道の、いばらの痛みは計り知れない」
「軽蔑されるようなことをしてしまったんですから、当然の報いです」
「かもしれません。でも僕は、あなたの意思を尊重したいですし、それから」
 青年は、そっと女のマグカップを持ち立ち上がった。
 下から覗くきょとんとした瞳に、穏やかな笑みが返る。野うさぎのイメージによく似合う、まるで、野原に咲く小さな花のように素朴な微笑みだ。女は泣きそうになった。心が癒されている証明だった。
「もう、苦いコーヒーは飲まなくてもいいんだと、言ってあげたい」

 ○

 知っている天井。夢にまで見る、夜明けのコーヒー。
 ぬったりとした闇の濃淡を、山間から昇る朝陽が端から引っくり返していく時刻。触れるものすべてを包むように冷えた冬の空気が、カーテンの隙間からふんわり漂って、寝惚けている瞼や覚醒している鼻の頭を撫でる。寒いな、と太腿を擦り合わせてから寝返りを打つと、キッチンからふよふよと湯気が浮いていた。ちょうどファンヒーターも唸り出したが、点火まで時間がかかるようになった。そろそろ買い替え時なのかもしれないが、遠くないうちに訪れるだろう春先を考慮すると、家電の処分セールを狙うべきだ。二人で相談して、そう決めた。
 コンロの前で、お湯が沸騰するまで文庫本を片手に暇を潰している背中が好きなのだ。スウェット越しにでも、肩甲骨の出っ張りが目立つ。首をほんの少し前に倒しているから、襟足の隙間から肌色が見える。女の自分より薄い色をしていることだけが、気に食わなかった。
 女は寝起きが得意ではない。だからいつも、早起きが得意である彼に、朝の支度を任せている。コーヒーも、自分が淹れる味の虚しさに塗れて生きてきたからか、恋人に作ってもらうシチュエーションにこだわっていた。砂糖とクリープを二杯ずつ入れてもらい、まろやかな甘味を起き抜けに飲むのが幸せだ。寝惚けている頭が、脳が、幸せだと訴えるのである。わたしは幸福に包まれている、慈愛で充たされている、自身を擦り減らすように過ごしてきた日々と別離したのだ──そんなふうに噛み締めて、過去の自分を、夢で反芻する。
 彼女が自身の諸々を偽りでコーティングしていたように、外と中がまるで違う生き物とは、どこにでも存在するのだと知った。付き合い始めてそろそろ一年が過ぎる彼は、むしろ女より甘党のような風貌をしているくせに、コーヒーは無糖が好みだという。その、いかにも重量感のある眼鏡をかけているからには、勉強が得意で賢い人なのだろうと想像していたら、事実、とても賢い頭脳を持っていながら、同時にスキーとスノーボードが得意だという、スポーティーな一面があった。逆に、無理を押してハイヒールを履いているのだと暴露してからは、転倒してはいけないからと踵を低くするように忠告された。女は、ウィンタースポーツを始め、体を動かすことが不得意だった。
 曝け出してみれば、塗装は容易くぱらぱらと剥げてしまうものだった。ゆで卵の殻を剥くよりも簡単に。下から現れた真なる自分は、赤ん坊のように透き通りそうな肌をしているわけでも、汁気があるわけでもなく、年齢相応にやつれていた。愛人をしていた頃のほうがもっと張りがあったのかもしれない。しかし、彼女はやはり充たされていた。苦いコーヒーやハイヒールも、存外悪くない。
「一年経っても、きみは寝ぼすけさんだね」
 野うさぎみたいな彼が言った。
「もう起きないと、遅刻するよ。今日は早いって言ってたじゃないか」
「うん、おはよう」
「おはよう。コーヒー、できてるよ」
 肩越しに振り返る表情は、本当は甘党なんでしょうと謎を解き明かした一年前の名探偵と何ら変わらない。彼はそのまま、淹れたばかりのコーヒーを持ってきた。一緒に飲もうと誘われ、女が応え、のそりと起き出すまでが恒例である。女は下着同然でベッドから下り、服を着なさいと叱られる。見かねた彼が、自分よりも背丈のある恋人に洗い立ての予備のスウェットを被せて、ようやく準備はできた。二人は手を合わせた。時刻は、そろそろ朝の七時になる。
「いただきます」
 一年前とは違う朝。甘いコーヒー、香る豆と、恋人の移り香。女はうっとりと目を細めた。
「僕は、きみが淹れてくれるコーヒーが飲みたいなあ」
 彼のくちびるが尖って、あひるみたいだ。怒っているわけではないということは承知している。
「たまにね、たまに。淹れてる」
「もっと頻度を増やしてくれてもいいんだよ?」
「わたしの甘えたを引き出したのはあなたなんだから、仕方ないの」
「なんだかなあ」
「でもわたし、ブラックも飲める。無理にではなくて。あなたが淹れてくれるブラックなら美味しい。ようやくね、そう思えるようになったの。思い切りが良すぎたんだって、ちょっとだけ後悔もしたのよ、実はね。けど、新しい仕事が見つかって、誠実に取り組んで、崩した積み木の半分くらいは取り戻せたわ。だから、無糖を飲んでもあの頃みたいに虚しくならない。ならなく、なったの、やっと」
 マグカップを両手でくるんだ。それを、青年の手が覆った。
 額に額がこつんとぶつかる。小さな衝撃が、たまらなく愛おしい。女も、男も、ただただ顔をほころばせている。女はふと考えた。──そのうち、ヒールをちょっとだけ高くしてみるのもいいのかもしれない。