流星の夜

『流星が見えなかった夜のこと』

 透き通った鱗を陽光にきらめかせて、小さな魚が一匹浅瀬に遊ぶ。その無邪気な姿に、栗生(りお)は視線を奪われて動けなくなった。
 長く苦しいばかりで実り少ない砂漠の行程に偶然見つけたオアシスは、ごく狭い範囲を低い灌木に囲まれて、ポツリと存在していた。一歩進むごとに寿命を削っていくようなこの熱暑の中で、静かに波打つ水面は冷たさと清潔な透明度を保って多くの旅人を癒してきたのだろう。
 そして、名前も知らないこの小魚は、このオアシスの中だけで多分に短い一生を過ごしていくのだろうか。
 栗生は砂っぽい両手をそっと水に沈めて、あどけない銀色をすくい上げようとしたが、するりと指の隙間を抜け出てしまった。しまったが、小魚は遠くへ逃げるでもなく、そのまま栗生の両手の近くで遊び続けていく。

 脇腹に微かにあたる刺激が、栗生の意識を正気に引き戻した。いつの間に寝ていたのか。視界の焦点が絞られてクリアになり、黒板の上にかけられた時計が目に入る。予鈴が鳴って講義が終わるまで、あと十数分といったところだ。コートと鞄を置いた椅子ひとつ隔てて、真崎(まさき)がペン先を栗生に向けて微笑んでいた。
 大学に進学してから急に色を抜きだした真崎の髪は、ブリーチを繰り返している割に柔らかく、ふわふわとボリュームを持たせてアシンメトリーにまとめてある。金髪というには、既に光の当たり具合によってはほとんど白く見えるほどだ。穏やかな性格そのままの眉、ちょっぴりたれた目じり、彼の優しげな顔の造りには、さすがに金髪は似合っていないと栗生は思っているが口には出せないでいる。
 教室の暖房はかなり強めに設定されているらしく、栗生の髪は汗ばんだ湿気で少しつぶれていた。砂漠の夢はこの暑さのせいか。
「江間セン、ラストに試験要項言って名前呼ぶんだからね」
 真崎の言う通りで、『撮影概論』の講義を担当する江間講師は、講義の終盤になると計り難いタイミングで受講生の点呼をとったり、脱線した雑談から急に思い出したように重要な試験内容を明かすなど、意地の悪さが定評だ。これで講義の枠は朝の一時限であり単位は学科の必須科目なのだから堪らない。毎年、多くの遊びたい盛りの生徒たちや、夜間アルバイトに精力を注ぐ学生たちを苦しめてきた。
「大丈夫だよ。俺二年目だぜ」
 栗生は去年この講義を落とした。
 そこそこ頑張って早起きし、暗くなる視界とまとまらない思考に耐えて出席もしたし、油断して聞き逃した情報も同じゼミの仲間と共有補完した。そのうえで評価が「可」に届かなかったのは、試験の前日にまとめて済ませただけの試験対策が付け焼き刃だったからだ。
 今年は大丈夫。講義をぼんやり聴いている限り、去年と内容は同じだし、ここまでの試験もとりたてて違わない。先輩から受け継いだ優秀な参考ノートも、付け焼き刃ではなく、咄嗟に口頭試問されたとしても切り抜けられるほどには読み込んである。そして出席日数は既に達成しているはずなのだ。
「それよりも……」
 栗生としては、今日は日中に睡眠時間を稼いでおきたかった。
「流星群今日寝ちゃって撮れなかったらアウトじゃあねえか」
 数ある流星群のなかでも、十二年に一度の周期で太陽系に近づく蛙杖座流星群は、その密度の高さで天文マニアや学者のみならず一般的にも人気が高い。それが今夜、上空を明るく染める。時間にして三十分足らずの天文ショーだが、観測できる時間帯の予測に幅がありすぎる。主役であるダストトレイル同士の距離が近すぎて干渉し合うため、常に速度が上下する変則的な流星なのだ。
 写真学科の「真面目な」学生なら、それほど珍しい品なら夜間露出の技倆を誇示するチャンスとして、遥か遠くの光源をファインダーに記録してみたいと考えるのは自然なことといえる。……真面目でない学生にとっても、同じゼミの女の子を夜中に連れ出して良い雰囲気になるための口実にはなるだろうか。

 真崎の住むアパートは、駅からとにかく遠い山の上にあった。
 バスもなく、歩いて一時間半といったところか。真崎はこのアパートから一時間半歩いて駅に向かい、電車でふた駅となりの町まで移動し、その駅から更に学バスで三十分のキャンパスまで通っているのだ。
 栗生と真崎、ふたりが通う大学の学部校舎そのものも、東京都下の駅から離れた山の手にあり、夕方も五時を過ぎる頃には山が夕日を遮って真っ暗になる。野球部など、運動部連盟の縦社会じみた部活動の部員たちだけが元気に声を出して練習に励んでいるが、暗闇から断片的に聴こえるその声が、かえって寂しげにすら感じる。彼らはほぼ毎晩、貸し切りのような学バスで終電間際の駅に向かうのだという。
 真崎がこの孤島のようなアパートを選んだのは、単純に金銭的な理由だった。駅から遠い立地条件が、そしてじわじわと進む地域の過疎化が賃料の低下を加速させている。
 芸術学部の中でも写真学科はとくに金がかかる。単純にカメラ単体の価格が数十万円、さらに、同じような値段のレンズを場面毎に使い分けるという世界だ。同じ学科の他の学生たちを見回しても、つい、機材にかけた金額の多寡を見比べてしまう瞬間が多い。腕の善し悪しはそのうえで改めて競うようなところがある。 
 栗生もその点は同じ学科の学生として共通の悩みではあるのだが、敢えて学生街の駅近くに住み、真崎が朝晩の通学に使う合計六時間あまりをアルバイトに費やして凌いできた。スタンスとしては出費を抑えて静かに暮らす緊縮財政と、積極的に外貨獲得を狙って出動を繰り返す積極財政というくらいの違いがある。
 この判断の違いは、ふたりの性格に因るところが多分に大きい。

 高校の入学式。それはほんの五年前のことだが、その日のことを真崎はもうずいぶん昔のように感じている。
 内向きで、幼いうちから既に諦観めいたものを抱かされて生きていた真崎に、同じ十五歳の栗生はまぶしく見えた。物事を深く考えていなさそうな荒い言動こそ癖はあるが、栗生は素直で、直情的で、解りやすく、そしてとにかく明るかった。
 それぞれが違う学区の中学校から進学して、お互いに見知らぬ者同士という緊張感ばかりのホームルーム。たいていの女子たちは、男子から見れば不思議なほど簡単に話しかけ合い、既に小さなグループの輪が出来かけているという焦燥感の募る状況。
 正確に言えば真崎と同じ中学校から進学してきた生徒が二人ほど同学年にいるが、真崎としては積極的に近づきたくない手合いであり、幸いに彼らとはクラスも違う。つまり、振り分けられたこの教室内に元から知り合い同士であるというような寄る辺は全くなかった。どうしようかと考えている時に、目の前の席に座っていた、真崎よりちょっとだけ背の高い男子が、笑顔の裏にそれなりに緊張を隠したまま、ふいに振り向いて話しかけてきたのだった。
「こんちは」
 初対面の同級生がそれなりに考えたあげく選択したであろう無難な挨拶に対して、年齢相応の照れ隠しでつい「どうも」と突き放したような声を返してしまったが、真崎は栗生に対して内心強く感謝した。
 新しく始まる学校生活の第一歩で、能動受動問わず他の生徒に話しかけられるかどうかは、案外重要な岐路だったりする。生涯を通じて人付き合いを避け、むしろ孤独を愛せる生き方があるのは確かだが、自分の性向も定まらない学生時代に一匹狼を気取るのは茨の道を生く危険を孕む。そのことを十五・六歳の少年少女たちが頭で自覚することは少ないが、真崎は本能的に理解した。
(今度はぼっちにならずに済みそうだ)と。
 実際、真崎の社交性は高校時代にやっと成長するまで、壊滅的だった。ゼロから友達作りをするというのは大学生になった今でも高いハードルに感じているが、真崎の高校生活では栗生が勝手に仲間を増やしてくれて、その彼らとも友達としてつき合っていくうちに、自分のさらけ出し方や、他人との打ち解け方、本来ならもっとずっと幼い時期に体感していたはずの人と人との距離感らしきものもいくらかは掴めたのだった。
 そうした経緯もあって、高校で出会って以来、真崎はインプリンティングされた雛鳥のように栗生に懐いてしまったのだった。共通の友人たちはこのふたりの関係について、正直なところ対等ではないと感じているが、それを特に指摘する者もいない。本人たちがそれを問題視していないのだし、そもそも、多くの友人たちも同級生であり、年齢的にそこまで深く考えることを期待しては酷だったろう。
 ともかく、栗生のおかげで、真崎は一番平凡な高校生活を過ごすことが出来たのだった。
 絵に描いたような青春。
 男子高校生特有の、頭の悪い行動を楽しみ、己の行動に悩むこともなく、距離が近いとギクシャクし、離れれば寂しい気持ちにもなる。だいたいいつも一緒にいるメンバーたちは、ともすればその荒い言動が敵を作ることもある栗生と仲良くなれるだけあって鷹揚な人間が多かったので、真崎も安心してひとりの馬鹿な男子高校生になれたのだった。
 ひとりが病で欠席すればそれなりに心配し、仲間内の誰かが誕生日と判ればそのイベントを口実に家まで押しかける。いや、もはや口実も必要ではなく、用事もないのに集まって、意味も無い会話にただ笑うような日々。真崎にとって、それらは全て中学生時代に経験してこなかったことだったのだ。

「うち今コーヒーしかないよ」
 真崎が真っ白いカップをふたつ棚から取り出して、テーブルの上に置いた。
 ごく普通のワンルーム……造りは古臭いが、日本中にありふれた1Rだ。その貧しい戸室が集まった長屋めいたアパートの三階、すぐ上には一応出入りの出来る屋上がある。
 五時限講義の終わりからすぐに駆け足で移動したが、時間は既に午後十時に近い。こんなことなら、駅の近くのスーパーで真崎と一緒に半額セールの弁当でも買ってくれば良かったと栗生は思っていた。お腹が減ったら近くのコンビニエンスストアでパンでも買えばいいと踏んでいたが当てが外れた。真崎のアパートに来るのは初めてなのだが、これほど駅から遠く、これほど寂れた地域だとは思っていなかったのだ。周囲に店らしい店など一軒もない。
 しかし、天体の撮影には理想的な環境ではある。山の上に建つボロアパートの三階。老齢世帯ばかりが住む周囲の民家は午後九時頃から静まりかえり、十時前にはほとんどの窓が消灯している様子だ。余計な光に邪魔されることなく、露出をしぼってシャッターを短く切れる。きっと大量の流星を鮮明に写し出せるはずだ。
「あ、砂糖は……」
「分ってるよー。お砂糖たっぷり入れてミルクも白くなるまで、でしょー? 栗生ちゃんは子供だなあ」
 柔らかい笑みで自身の手元を見つめながら、真崎は栗生のカップに砂糖を落とす。砂糖はティースプーンで必ず十杯以上。ミルクはコーヒーがほとんど真っ白に見える割合で入れて、ザリザリとした感触がなくなるまでかき混ぜる。これは既に子供の舌だというような問題ではないなと真崎は思う。
 背も高く、いわゆる格好良い部類に入るだろう精悍な顔つき、話せば周囲の気持ちを弾ませる明るい性格の栗生だが、中学高校の思春期を通じて人並みに異性に興味を持ちながら、真っ当な恋愛経験はひとつもない。いろいろ原因はあるが、表面的にはこの甘口のせいだ。
 彼に告白をして、ぎこちなくもデートに出かけてくれる女子生徒はかつての同級生にも何人かいた。しかし、極端な甘口が最初のうちはギャップとして彼女たちから可愛がられるのも束の間、糖尿病までトップスピードのまま最短距離を走るような栗生と恋人としてデートをしていると、似たような食生活についていけなくなる。
 栗生が公園のベンチに座り、生クリームだけが倍盛られた甘いばかりのプレーンなクレープを、セルフサービスのテーブルで悪ふざけのような量の砂糖を混ぜ込んできたコーラで流し込んでいるのを横目で見るだけで、彼女たちは舌が焼けるような錯覚がして吐き気に襲われるのだという。遅くとも三回目のデートで、手をつなぐタイミングを計ってドキドキしている栗生は彼女たちから振られてきたのだった。
「サンキュ」
 手渡されたコーヒーカップ。真崎が栗生のために丁寧に作ったコーヒーは、ちょうど良かった。深く濃く練り込まれた糖分が栗生の血中に染み渡るような感覚がする。空腹感も多少は紛れそうだ。栗生は口に含んだコーヒーを舌先でかき混ぜるようにして飲み干した。
 余談だが、小学生の頃から既に理数系の学科を苦手としていた栗生は、授業中にぼんやりと聴いた単語を独自に組み立てた理屈で、唾液中のアミラーゼ酵素が各種の糖分を栄養として分解すると勘違いしている。惜しい理解といえるだろう。故に、砂糖のたっぷり溶け込んだコーヒーが唾液と十分混ざるように口腔内で撹拌する癖がある。この飲食の仕方も、かつてデートした女子たちから忌避された要素のひとつであるが、癖なので本人は分らずじまいである。
「そろそろ来るかな?」
 真崎のひと言でふたりとも壁の時計を見上げ、頷きあってカメラの準備を始めた。
「すぐ来たら楽で良いな」
蛙杖座流星群が地球のすぐ横を密集して通り過ぎるのはおよそ三十分間と言われている。問題は、通り過ぎるのが午後十一時なのか午前三時なのか、それとも間をとって午前一時頃なのか、全く予測定できないことだろう。同じ学科の学生たちに対して自分の写真撮影の腕前は披露したいが、ただ待つだけの時間は、面倒くさがりでせっかちな栗生には苦痛だ。
 一応持ち歩いている携帯ゲーム機には、真崎と揃って同じゲームソフトが挿さっている。充電も万全。いつもはダサいからと言って着ない黒の分厚いダウンジャケットを羽織り、色は気に入っていないがとにかく暖かさ重視のマフラーを巻き込んである。真崎も似たような装いで、アパートの屋上に出た。
 灯りは栗生が持ってきたアウトドア用の電気ランプひとつ。よく熱したコーヒーをたっぷり詰め込んだ保温ポット(砂糖は別)にカップふたつ。ガス缶カセット式のヒーター。毛布は一枚しかないが幅広く肉厚でいかにも暖かそうだ。あとはふたりそれぞれの撮影機材。これらを持って歩き回ると最上階の他の住人たちに迷惑なので、ふたりが居座るスペースは真崎の部屋の真上に限定した。
 真冬の夜空を背景に朝まで持久の構えだ。
 見上げると、視界の隅にいくらか雲が出ているようだった。撮影の邪魔にならないか不安に思いながらも、とりあえず、ふたり揃って屋上のコンクリートに腹這いになってゲーム機の電源を入れた。念のために用意した銀マットは体温を守ってくれている。この上で毛布を分け合っていればまず風邪の心配はなさそうだ。真崎の肘のすぐ横には手鏡を置いてあり、鏡越しに夜空を監視することも出来る。

 ゲームはよくある協力タイプのアクションモノだった。単独プレイでも非常な努力と工夫を積み重ねて時間をかければ突破はできるが、複数人で集まって協力した方が高い効率で進められる。画面内では、軽装で弓矢を構えたキャラクターと、やたら重そうな鎧に身を固めたキャラクターが、各々の役割通りに連携して恐竜風の巨大な怪物を追いつめている。
 ところで、午前一時を回ろうとしていた。
 ふと手元の鏡を覗き込んだ真崎が空を振り仰ぐと、不安視していた雲が深く大きくなり、視界の八割ほどを厚く覆っていた。
「栗生ちゃん」
「んん?」
難易度の高いゲーム攻略を終えて項垂れかかっていた栗生も、真崎の深刻そうな声に、寝返りを打つようにして夜空を見上げ、絶句した。
「……降るかな?」
 ふたりの手中にある携帯ゲーム機が、勝利のファンファーレを鳴らして攻略の成功を示し、いくつかの数値が有利なほうに上がっていくリザルトを表示している。
「少なくとも、星は見えないぞ」
 栗生は朝の天気予報を思い出した。
「日本海側は降るけどこっちは大丈夫って言ってたぞ、宮の野郎」
毎朝同じ番組の天気予報コーナーを見ているうちに親近感でも沸いたのか、顔見知り同士ですらないテレビの天気予報士に対して呼び捨てで怒っている。その宮予報士が言っていたのだ。
「日本海側は全体的に雲が出てせっかくの天体ショーは絶望的ですが、太平洋側の各都道府県では比較的穏やかな夜空で、よほど運が悪くなければまず蛙杖座流星群の観測には問題ないかと思われますね」
あの野郎……天気予報士にあたっても理不尽だと分りつつも、栗生はもう一度呟いた。
「撤収する?」
「いや真崎、もうちょっと様子見で」
「そう? でもなんだか湿気きてない?」
「ああ……そうなんだけどさ」
 悔しいじゃあないか、栗生はそう思うのだ。今夜のこの企画は数週間前から準備してきたのだから。
「じゃあ、もう三十分して駄目そうなら中入ろう」
ひょっとしたら奇跡的な雲間に流星群が見えるかもしれない。案外、その方が詩的な絵になるのではないか。真崎が妥協案を言ったところで、カンカンと階段を上がる足音がして、ふたりは身を硬くした。
 午前一時半までまだ間がある。
 ふたりの近くに置いてある電気ランプ以外に灯りはなく、暗闇で判別はつかないが、階段を上がってきたのは足取りのしっかりした老人のようだった。
「そろそろ降ってくるよ」
そっと置いていくように語りかける声を聴いて、真崎は老人がこのアパートの大家だと気付いた。
「あれ、大家さんだ」
 屋上に出るにあたっては、朝のうちに真崎から大家に話を通してはあった。それにしても、わざわざ心配して声をかけに出てくるタイプの大家ではない。この老人は店子の動向にそれほど興味を持たない人物だと真崎は思っていた。学生ふたりは深夜のこととしてできるだけ静かに過ごしていたが、おそらく、敷地内で深刻な怪我でもされたら大家として面倒だという判断なのであろう。単純に「中止しろ」と言わずに、さも心配して階段を上がってきたかのように語りかけたところが、年長者の配慮らしい。
「そうですねえ。今日は駄目みたいですねえ」
 真崎が起き上がって応対している後ろで、栗生はちょっと頭を下げてから周囲の片付けを始めた。
(なんか急に疲れたな)
悪天候の可能性がゼロではなかったとはいえ、栗生も真崎もこれほど厚い雲とまでは想像もつかなかったし、企画が失敗に終わる想定も一切していなかった。肩にかけた十五キロのカメラケースがやけに重く感じる。
「もう寝るしかないですよねえ」
 荷物を抱え、その手に電気ランプを下げて近づいてみると大家の表情は案外柔らかく、栗生は少し拍子抜けした。
「大変だねえこんな遅くまで学生さんは」
なにか天文学生と思われていたらしい。駅から遠い安価なアパートに住み、休まず通学を続ける真崎が、老人の目には清貧な苦学生のように好もしく映っているのだろう。屋上に出てからこの瞬間まで、ゲームしかしていないことが変に後ろめたく感じてしまう。
 大家の前を通って階下に降り、表札に頼りない筆跡で『隆』と手書きされた部屋のドアをそっと閉じた時、同じように鉄製の階段をカンカンと下りていく大家の足音が聴こえた。
「仕方ないね」
後ろから真崎が言う。実際どう仕様もなかった。窓に、かなり細かい水滴がついている。
「ひゃあ、間一髪だぁ」
軽く雨が降り始めたらしい。真崎は面白そうな表情でちょっと跳ねてみせた。レンズは水に弱い。大家に助けられたな、と栗生も思う。
「もうすることないからね。寝る?」
「そうだな、そうすッか」
(腹減る前に寝ないとな)
 正直なところ、夕食を抜いた形の栗生は空腹を感じる寸前というところだった。幸い、屋上でプレイしていたゲームの単純作業が睡魔を誘ってくれている。栗生の場合、本格的に空腹を実感すると眠れなくなるので、その前に入眠してしまいたいのだ。時間的にも遅く、周囲への音環境を考えれば入浴も夜が明けてからが良いだろう。
「あの?、それでねッ」
 生活費を切り詰めている真崎の部屋にベッドはない。昔は畳敷きの部屋だったのを無理矢理にフローリングへとリフォームしたのであろう、この部屋の収納は普通より奥行きがあって、クローゼットと言うにはいかにも押し入れ然としている。その押し入れから、真崎は三つに畳まれた敷き布団を引っ張りだしながら、少しだけ言い澱んだ。
「いや、分ってるよ。どうせ布団が無ぇとかだろ」
「それなんだけどさ」
真崎が来客用の予備布団などを余分に買ってあるはずもない。寝るという予定ではなかったために気にしていなかったのだが、問題だ。
 床には、厚めのカーペットが広々と敷かれている。フローリングに直接寝るのは避けられそうだが、電気ストーブの他は真っ当な暖房がないこの部屋で床に寝転がるのは体調管理に厳しいかもしれない。
「風邪は確実にひくよな」
モコモコと野暮ったいダウンジャケットを着込んでも、きっと体温が床から奪われていくような気がする。
「そうなんだよ。だからね」
この布団で一緒に寝ればいいんだよ、と真崎は笑顔で言った。
 つい先刻まで屋上でひとつの毛布を分け合っていた時は特に何とも感じなかったのが、ここで同じ布団で寝るとなると、栗生は急に緊張した。説明のつかない妙な意識に囚われている。
(いやいや、男同士だし何も問題は……)
表情を見るかぎり真崎の方は特に何も感じてはいないようだった。彼の場合、照れたりしていれば確実に表情の中に赤みがさすはずなのだ。
(そうだよ、俺らふたりともノンケじゃん)
 この不思議な感情の流れは男性特有の物といえる。それは必ずしも同性愛を意識してしまうものでもない。あるいは、遺伝子に組み込まれた遥か遠い記憶、野生動物の雄たちが互いの縄張りを意識して相争っていたことが関係しているかもしれない。男が、別の男と密着、もしくは極めて近い距離にいる状態でリラックスするというのは、相当に相手を信頼して親密な意識を持っていることになる。
 高校時代の経緯から、親鳥のあとについてまわる雛鳥のようにして真崎が自分の近くにいることなら、栗生は薄々気付いていた。
(それなら確かに真崎は気にしねぇんだろうけどな)
逆に、自分はなぜ意識してしまうのだろう? と栗生は思わざるをえない。
(あ、そうか、こいつ彼女いるじゃあねぇか!)
 常に自分の周囲に居る……さながら衛星のように侍っているはずの彼に、いつの間にそんな時間があったのか栗生には疑問なのだが、真崎には確かに恋人がいる。「同じゼミの同級生だよ」と申し訳なさそうな顔の真崎から一度だけ紹介されたことがある。紹介された彼女の、同級生にしては大人びた雰囲気が、少しうらやましかった。
「こいつのどこが気に入ったの?」
無理に笑顔を作り、内心の嫉妬を隠しながら訊いた答えは「可愛いから」だった。大学入試で浪人したという年上の彼女からしてみれば、確かに真崎は母性本能をくすぐるタイプなのだろう。
 ……なのだろうが、栗生は彼女の回答に嫌なものを感じ、苛ついた。
 真崎は、あの彼女とどこまで進んでいるのだろうか? もしオトナのカンケイになっているのだとしたら、あの彼女がリードしているのだろうか。少なくとも真崎が積極的に行動する姿は、栗生には想像もつかない。それにしても……
 今この瞬間、男子学生の独り暮らしにしてはやたらと白く綺麗なシーツの上で、他意が無いにしてもちょっと戸惑うほどに近い距離で、真崎の小柄な体が丸まってくすくすと笑っている。仰向けに体を横たえたまま、栗生は極力、そのセクシャルなヴィジュアル的想像を頭から振り払わなければならなかった。屋上で、真冬の外気からすらふたりを守ってくれた毛布の中でも、真崎と触れ合いそうな右脇腹の辺りは特に暖かい。と、しばらくくすくすしていた真崎が「あのね」と毛布から顔を出して小声で言った。
「礼香さんとは別れちゃったんだよ」
 瞬間、栗生は自身の背中に冷たさを感じ、胴を震わせるのを辛うじて抑えた。
「え、なんで?」
更に、もったいないと言いかけて思わず上半身を起こしそうになったが、真崎の右手が栗生の肩にかかっているのに気付いて言葉を飲み込んだ。
「うーん……」
真崎は言いよどんだまま栗生の右肩に置いた自分の右手を見つめてばかりいる。
「ッてぇか、なんで今それ言う? 人の別れ話とかそんなに面白くないぜ」
「うん……」
中学時代の真崎が、笑うことのない生活を送っていたのは、栗生も間接的に知っていた。しかし、少なくとも高校に進学してから自分と一緒にいるあいだは彼が笑顔を絶やした瞬間は少なかったはずだ。
 深刻な内容の、悩みというよりは愚痴を聞かされるのかと栗生は身構えた。もちろん、親友として真面目に話を聞くのは吝かでない。
「言いにくいのか?」
栗生が普段と声色を変え、ゆっくりと低いトーンで、できるだけ優しく聴こえるように語りかけると、真崎は慌てたように首を振った。
「あ。や、やだ、違うんだよ違うんだよ。そういうんじゃなくてね」
真崎は枕を使っていない。小刻みに首を振るたび、彼の空気を含んで柔らかい髪が、シーツの上でサラサラと広がっていく。笑顔という訳ではなかったが、栗生が見る限り、その表情はゆったりと余裕を持って安心していた。
「なんだか分らなくなっちゃって」
 人を好きになるという情緒が、自分の中で他のいろいろな物を、例えば趣味のカメラなどを好きになる感覚と区別できなくなったのだと真崎は言った。
(つまり真崎が振ったのかよ)
栗生はその事実に行き当たったところで、ホッとしている自分に気がついた。
「ん?、なんか、こう言うと誤解あるかもしれないんだけど」と前置きをしておいて、真崎は続ける。
「僕は栗生ちゃんがすっごく大切なんだよ」
「うん。ん? 急にキメェこと言い出したな」
「ああ、ミヤッチもカイトも、コシノンとかユウマとか全員ね。もう、すごい好き」
思春期前ならともかく、成人式を目前にひかえるような年齢を超してくると、男同士でこの手の話は照れ臭くてなかなかしない。
「好きとかやめてくんねぇかな、気味悪い」
栗生も例外ではなく、面と向かってそう言われればこそばゆいし照れてしまう。
「僕が中学までいじめられっ子だったのは知ってるでしょ?」
 ああ、と曖昧に返事をしたが、確かに栗生はそのことを知っていた。いや、通っていた中学校は違うので、直接その現場を見てきたわけではない。全て人伝に知った話だ。

 高校二年目に進級した時のクラス編成で栗生と真崎は運良く同じクラスになれたのだが、同じ教室には、今度は真崎と同じ中学校出身者たちが二人、移ってきていた。一年生のあいだ、合同授業で見かける程度だった彼らも、最初のうちはクラス替えで変化した環境に大人しくしていたのだが、夏休みを待たずによく知っているはずの真崎を気にし始めたのだった。
「あの隆が笑ってるぜ」
二人は『あの』と殊更に声をあげ、かつて間近でいじめられる姿を見てきた隆真崎の変化を面白がってみせ……ひとりの平凡な男子高校生としての真崎しか知らないクラスメイトたちの何人かは、二人の言う真崎の『あの』過去に興味を持ったようだった。
 この二人は、特に中学時代の真崎に対して直接暴力を振るっていたわけではない。しかし、いじめに加担していなかったかというと言い逃れは出来ないポジションにいた。加害グループの主立ったメンバーとはそれぞれ親しかったし、主犯格グループから彼を無視せよと通達があれば深く考えもせずに無視を決め込むくらいには加担していた。兵隊の一群。その残党と言っていい。
 真崎は再び、憂鬱な表情で日々を過ごすようになった。
 いや、そうなるところだった。
 中学校で、真崎がいじめのターゲットになった理由を説明できる者は、加害グループの主立ったメンバーの中にも少ない。最大限に突き詰めてしまえば、主犯格数名の(彼ら自身が自覚できないほど小さな)嫉妬心が原因なのだが、そういう内省ができる年齢でもないし、思春期が始まろうという複雑な精神状態では、真崎に対して苛ついた理由を上手な言葉にはできないだろう。
「あいつムカつかねえ?」
当然、被害者たる真崎にとっては理不尽な現象であったし、二十歳になろうという真崎が未だに奥手な性格でいるのも、過去にいじめられた「原因が判らないままだから」だともいえる。
 一般的に、男性よりも女性の方が精神の成熟は早いという。第二次性徴が発達するころの娘たちが、同級生男子たちの子供っぽさに呆れて上級生や身近な大人たちの持つ幻想に目を向ける中、一部にはその子供っぽさに母性を感じるタイプの女子学生も現れてくる。真崎は別に子供っぽい性格というわけではなかったが、その愛くるしい風貌が彼女たちの琴線を刺激していたらしい。
 そろそろ男女というものを意識し始める男子中学生たちにとって、女子たちから「格好良い」と言われてモテている同級生ならともかく、「可愛い」と言われて警戒心なく受け入れられている同級生男子というのはどことなく面白くない存在に映ってしまう。どことなく面白くなく、どことなく苛つき、その「どことなく」を上手く言葉に体系化できないまま「調子に乗っている」等というどことない根拠に拠って、一部の素行不良気味な生徒たちはことあるごとに、真崎にどことなく絡みついたのだった。
 あの辛い日々に逆戻りしてしまうのか?
 栗生と出会えたことで知ってしまった平凡な学生生活の味。華はないが煌めいた日常が、加害グループの「残党」程度の人たちの、一時的な気晴らしのために壊されてしまうのか。過去に『あの』日々を実体験している真崎は、簡単に絶望した。
 ただ、人間の社会性を知って一年足らずの真崎は、中学時代と高校時代の自分で条件が違っていることに気付いていなかった(ある意味で、この段階では未だ栗生をはじめとした仲間たちを信じきれていなかったのかもしれない)。高校二年生になった真崎の周囲には、一緒になって同じ日々を楽しく暮らしてくれたおおらかな少年たちがいたのだ。
 残党の二人が面白可笑しく語る中学時代の真崎のエピソードは、確かにクラスメイトたちの興味をこそ集めたが、彼ら二人が薄ら想定していたような効果は生み出さなかった。
「他人の武勇伝ってつまらねえんだよなあ!」
二人の語り口は、実のところ巧みだったと言っていい。栗生たちが、彼らの話の腰を折るような絶妙なタイミングで(別にタイミングを計算した訳ではないのだが)大声を出さなかったら、クラスメイトの半数以上は残党の披露する武勇伝に笑っていたかもしれない。最初は真崎が転んで泥だらけになったとか、話はその手の悪意のないエピソードから組み立ててあった。背伸びはしても大人にもなりきれていない高校生程度の少年少女たちがそれを聞かされた場合、笑って、笑い話になるのならという軽い感覚で真崎を弄り、行為がエスカレートしていった可能性は高い。
「だよなあ。昨日見た俺の夢のほうが……」
「え、何? エロい夢?」
「ち、違ッ! エロくねえし! 違うの、面白かったの!」
「でも夢の話ッて人に話すと面白さ上手く伝わらないんだよね」云々……
 笑いのターゲットが自分に移ったことで顔を真っ赤にしながらも笑ってふざけあう友達の集団を見て、真崎は生まれて初めて胸に広がる温かい涙をぐっと堪えていた。彼が中学時代にいじめ被害を受けていたこと自体はクラス中に知られてしまったが、当時の具体的な内容は特に広がることもなく、従って真崎の大切な毎日は栗生たちの手で守られたのだった。このあたりの機微は、加害であれ被害であれ、いじめの実体験が伴わないと理解はしにくいかもしれない。

「僕はすごく感謝してるんだよ」
 真崎にそう言われても、栗生は簡単に「そうか」とは言えない。別段、助けたという意識があるわけでもないのだ。一応頭では理解できる。自身や仲間たちの何気ない行動のいくつかが、真崎をいじめから救った……らしい、程度には。
 もちろん、感謝される分には栗生とて嬉しくもある。言葉が荒いせいで、栗生自身がともすれば敵を作りかねない性格なのだ。他人からこうして好もしい反応を受け取る機会はそうない。
「面と向かってそんなこと言うもんじゃあねぇぜ。なんか気持ち悪いじゃん」
「んん、やだ。今日は言わせてよ」
 常夜灯のオレンジ色が照らす真崎の顔が、栗生にはやたら近いように感じる。仰向けに寝て天井のランプシェードを見つめたまま、栗生は右横を見られなくなってしまった。
「もう十分言ったじゃん。満足だよ」
自分の右側で、毛布の外の寒さから逃げるようにして一層寄り添ってくる真崎の動きを感じて、栗生は慌てて左に寝返りをうった。
「だいたい彼女と別れた理由になってないじゃんか。話変わってんだよ、お前の脳みそ今日留守かよ」
言いながら、このまま話を逸らしておけば良かったと瞬間的に思う。寝返りに従って毛布を引っ張った分、真崎もついてきて、ついに背中に密着されたことも「裏目に出た」らしい。
「あ……そうだよね。でもね、話、そう変わったわけじゃないんだよ」
 最早避けられないのかと観念して、栗生は自身の心音に集中した。心臓の慌てる音が、聴こえてしまいそうなほど速く強い。体勢は判らないが自分の背中にくっついている真崎にも、伝わってしまっているだろう。今この瞬間にも、真崎が決定的な言葉を吐いてきそうな状況の中で、栗生の思考は乱れたまま止まらない。
(何を避けられないッてんだ? なんでこいつこんなにくっついてくんの? いやちょっと待て。ちょっと待てよ、本当に……いや本当に真崎これ男同士なのに? 俺を? 俺に迫ってんの?)
「俺たち友達じゃん」
 機先を制するつもりで、つい会話から浮いた言葉が走ってしまうほど、追いつめられている。今まで、栗生自身がデートをした女の子たちから言われた言葉と同じなのだが、今はそのことに気付く余裕もない。
「そうだね。でもそれ以上にすごく大切だよ。栗生ちゃんは大切な人なんだよ。だから礼香さんにもごめんなさいって……」
真崎の声は次第に甘さを増しているように感じられた。そのくせ、妙に明るく聴こえる。
 今この瞬間、栗生は、真崎が自分に依存するあまり友情と恋愛感情を錯覚して、彼に対して道ならぬ恋心を抱いてしまったのではないかと思っている。そして、背中越しに寄り添ってくる真崎の状況がことごとく彼の予測を裏付けているように思えてしまう。
「何なん? 俺男同士であんまベタベタくっつくの嫌なんだけどさ」
これ以上ない近さに、声は自然と小さく、静かな空間を透き通る囁きと化す。
「栗生ちゃんはそうだろうね。でも悪いけど僕の部屋寒いでしょ? で、こうしたら暖かいでしょ?」
そう言って、(栗生の感触が確かなら)真崎はついに明らかな形で抱きついてきたようだった。お互いの眠気も混じっているのか、会話は先刻と似た景色をぐるぐると巡り始めている。
(いや待て、変にはぐらかすよりストレートに話して振るか? そんで寝たら明日には忘れてるッてのはどうだ?)
 決心して相手の居るほうに大きく寝返ると指一本分の空間を隔てた目の前に真崎の双眸がきて、栗生の心臓は一瞬高鳴り、そのまま止まってしまうように感じられた。抱きつかれているのなら当然だよな、と冷静に考える瞬間も入り交じって、
(こりゃ女も可愛くて放っておかないよな)
自然に浮かんできた思考を慌てて打ち消す。たまに幼く見える眉毛、微かに垂れて大きく開かれてくりくりと動く瞳、小さく尖らせている上唇。母性ならずとも保護欲くらいは湧くだろう。余りにも近すぎるフェイストゥフェイスに、慌てて首を反らした。
「あのさ、真崎」
「なあに?」
「お前勘違いしてるんじゃあねえかな?」
 栗生は出来る限り柔らかい声を出す。少なくとも自分に好意を寄せる人間を、冷たく突き放せるほど成長もしていないのだ。しかし、真崎はこの優しい語りかけ方を喜んでいるように見えた。
「なにを? 僕が? 勘違い? してるの?」
寝ながら小首をかしげてみせる仕草を間近に見ても、幼年めいて愛くるしく感じる。「違うんだ」と自身に強く言い聞かせないと、この甘えきった風情が栗生の心を狂わせかねない。
「俺たち男だよね」
「そうだね」
「真崎は?……」言葉を途切れさせない方が良いと栗生は本能的に判断した。一度黙ると二の句を接ぐのに別の切欠が必要になる。
「俺のことが好きなんだ?」
「うん! そう。大好き」
 自身が呼び水をさして、返答も予想もしておきながら、この真崎の珍しくストレートで飾らない物言いは栗生の眠気を完全に消し去った。心配していた空腹感すらも、峠を越したように麻痺している。
「そう……なんだ」
心のどこかで、自分の勘違いを期待していたのかもしれない。真崎はそうでなくても距離感の近い奴だったじゃあないか……。
(どうしたらいいんだ?)と迷わざるを得ない。当たり前の話だが栗生は何の準備もしていないのだ。昨今の世間を見回して、性愛という分野も細分化してマイノリティがマイノリティでなくなりつつあるのだとしても、自分が同性から面と向かって恋われる可能性を考えながら生活する必要はそうそう無いだろう。
「どうすればいい?」
 極めて自然に栗生の口から思考が漏れ出た。漏れ出たが、それを聞いた真崎は不思議そうな表情をしてみせた。
「なにが?」
「あ」
自分の口から無意識に言葉が走り出ていた事実に、心が余計に焦っていく。
「なにがッて……そりゃあ、男から告られて俺はどう返事したらいいのかッて、そういう話なんだけどさ」
「あ! 栗生ちゃん、違う。もう。違うんだよ」
常夜灯の、暖かいが弱々しい暗がりの中でもはっきりと判るほど真崎の鼻筋に紅がさしたのに気付いて、栗生はまた芯に電流のようなものを受けた。変声期前の少年めいたユニセックスな真崎の声を、既に可愛らしく感じている。
「ん? ……違う?」
 それまでとは明らかに違う、じわりと熱いだけの汗が、栗生の背中に浮き出た。
「あ、ゴメン。僕たしかにきわどい言い方してた。違うんだよ。これ恋愛的なとかそういうんじゃなくて、あくまで友達としてのそういうのでね……」
真崎が顔を真っ赤にして栗生の誤解を否定し始めた。焦りからか語りが早口と化している。
「あ?! そう? そうかあ?! いやマジ焦った?」
この開放感。栗生も急な安心感で半笑いになっているせいで吐き出す言葉のひとつひとつにスタッカートがかかってしまう。
 ともあれ、栗生の勘違いだったようだ。いや、それも仕方のないことだろう。真崎の声色はあまりにも甘えてしなだれかかっていたし、寒いという口実があるとしてもおかしいくらいに体を密着させていた。もともと栗生に対して距離感の近い真崎だったとしても、このモラトリアムな時期の男の子が不安に思うほどの近さで、好きとか大切とかいう言葉を囁きかければ、栗生ならずとも妙な気持ちにならぬはずがないのだ。

 今は何時になっているだろう? ほっと一息ついた反面、栗生はちょっと惜しい気がして、慌てて自分を否定した。目の前で、さっきまでと寸分変わらぬ近距離のまま真崎が声を殺して笑っている。遮光カーテンの隙間から、街路灯の白くて寒々しい光がほんの少しだけ差し込んで、偶然彼の唇をつるんと艶光らせたのを見た瞬間、強烈な衝動が栗生の肉体を駆け抜けたが、寸でのところで体が動き出すのを堪えた。
(危な?! 何やってんだ俺)
自身が、勘違いだったとはいえ真崎からの求愛を拒もうとしていたくせに、この刹那には真崎の唇に触れようとしてしまった栗生である。
「も?、悪かったってばあ」
 躊躇うような栗生の表情をどう判断したものか、真崎はさらに面白そうにして、どちらともつかない表現で親友の心を騒がせた過ちを謝罪していた。
「危うく気まずくなって一番大切な友達なくしちゃうとこだったよー」
「そう思うならあんまりくっつくんじゃあねぇーぜ」
言い返しながら、栗生は一番大切なという言葉に胸が沸くのを抑えきれない。
「えー、だって寒いもの」
既に勘違いを誘発した要素のひとつだと判っていて、それでも栗生に抱きつく真崎も真崎だ。
「じゃあいいよ、もう。俺寝るからな」
 真崎と正面から見つめあう体勢に名残惜しさを感じつつも、栗生は自身に強いて背中を向けた。背中に、少し熱っぽいような、触れるか触れないかの儚い感触がある。最初は真崎がその指先で栗生の背中に文字でもなぞっているのかと思ったが、それは偶然のようだった。触れた部分から自分の動悸が伝わってしまうのではないかと、心配からか余計に彼の胸の回転は速まっていく。
 体を動かせば真崎が離れてしまうような気がして身動きのできなくなったまま、栗生はどれくらい経っただろうと考えていた。時計を見るために体をひねることすら恐ろしく感じている。
「……す……」
背後から聴こえたその呼吸音に、一瞬、真崎がくすりと笑ったのかと思った。息を殺して真崎の気配を感じ取ろうと努めてみるも、やや長い周期で一定のリズムを刻む吐息だけが全てだった。
(寝てるのか)
暢気なものだな、と、彼にはいっそ恨めしいような気持ちすらある。
 栗生は、自身に起こったこの不可解な変化で、思考が混乱したままだった。
(ひょっとして……)
本当に万が一、と自身に言い聞かせるような前置きをしないと、自分を見失ってしまいそうなくらい危険な兆候を感じているのだ。
(むしろ俺が真崎を好きなのか?)
頭の中で、心の奥で、胸の内で、やっとの思いで具体的な言葉になったのを確認して、彼は慄いた。
(その……友達としてじゃあなく……て)
動悸したままの胸が既に苦しい。自分で自分の呼吸を随意にできない。
 自身の背中に真崎が貼り付くようにして密着していること。そのことで彼が安心しきって眠っているという事実。それらのことで、栗生は確実に悦んでいる。その自覚をしてしまっている。
(俺からは言えないよな)
 柄じゃあないものな、と独りごちるしかできない。この、苦しいほどに盛り上がってしまった気持ちを、どうすればいいのか。
「どうこうしたいッて気持ちじゃあねぇんだよ」
ぽそっと呟いて、慌てて耳を澄ませる。真崎はその程度で目を覚まさないほどには深く眠っているようだった。
(元はといえばお前が変なこと言い出したからだろうに)
理不尽なものと分かってはいるが、栗生としては自分の心に勝手に火をつけられて放置されたような心象風景になりつつある。
(そうか……俺、少なくともバイだったのか)
 遮光カーテンの隙間から、白い筋が空中を通り始めたのが見える。外の通りを、いかにも古い原付のようなバイクのエンジン音が近づいてきて、やや乱暴に紙束を郵便受けに挿す気配の後、遠ざかっていった。
(一睡も出来なかったじゃあねぇか)
朝が明けたらしい。
「仕方ないよな」
 栗生ははっきりと明確な声に出して言ってみた。朝の光が、意外にも爽やかな気持ちにさせてくれたが、もう少しだけ大きな声で言い直したい衝動がある。背後で無邪気に眠る真崎に気をつけながら、
「仕方がないじゃあねえか」
欠伸のついでにそっと言ってみた瞬間に、右目をあふれた涙が鼻梁を通って左目まで到達した。
「ぐ……」
(マジか。泣くほど恋しちゃってんのか、洒落んなんねえぜ。馬鹿だろ俺)
「仕方、な、い」
声を殺した嗚咽は体を震わせるほどの強制力を持っていた。
 透明な鱗が朝日を反射して、虹色に輝く。銀色煌めく小魚は両手のすぐ近くで安心しきって泳いでいるのに、栗生はそれを手のひらに掬えない。
 昇り始めた陽光が、次第に、この寒々とした室内を暖色系の色に塗り替えていく。その中で、栗生は叶うことのない小魚への片思いを自覚したのだった。
(だってそうじゃあねえか。こいつは他意なく好きだって言っただけだし、恋だの愛だのそういうんじゃあねえッて否定してたもんな。俺が勝手に独りで盛り上がって、勝手にこいつのこと好きになっちまったんだ。今更さ)

 真崎がテーブルの横に立って、新しいカップにコーヒーを注いでくれた。溶かせる限り溶かした砂糖、クリーム色を通り越してほとんど純白なほどのミルクを入れて、丁寧にスプーンでかき混ぜてあるのを、栗生は黙って受け取った。時間は既に午前七時を回っていて、そろそろこの部屋を出発しないと一時限目のコマに間に合わなくなる。繰り返しになるが、栗生の住む部屋からなら出席までもう二時間は余裕がある。
「栗生ちゃん目が腫れてるじゃない」
 栗生の気持ちを知らないまま、真崎がいつものように笑いかける。窓を背にした彼の金髪は、逆光の中で輪郭を白く光らせているように見えた。栗生は座って、受け取ったコーヒーを口に含んで舌で撹拌しながら、懐かしいような、恥ずかしいような、面映い気持ちで彼の顔をちょっとだけ見上げる。
「仕方ないだろ」
「あ?、ちゃんと眠れなかったんだ?」
半分、自分だけで合点がいったようにして、真崎も座り込んだ。
「うちは寒いからねえ」
「ああ、仕方ねえな」
「なんなのさ栗生ちゃん仕方ない仕方ないって。朝かららしくないよ」
 栗生には他に言い様がないのだ。明け方の部屋でそっと体を起こして、ながいこと真崎の寝顔を見つめていた、そのことが、彼の言動を後ろ暗くしているのだから。安心しきって眠る真崎の唇が、ほんの少しだけ隙間を作っていたのすら鮮明に覚えるほど眺めた。あの隙間に吸い付いてしまいたいような衝動も何度かあった。舌をねじり込みたい欲望も微かにあった。寝ている真崎を起こさないためにそれらの欲求は寸で抑えたが、正直なところ、栗生は後ろめたくて真崎の顔を直視できないのだ。
「す、済まねえな」
だから、いつになく気弱な言動にならざるをえないのだ。
 恋愛は惚れた方の負けとは、誰が言い出した慣用句だろうか。これから、ふたりの関係はゆるやかに変化していくかもしれない。それを、共通の友人たちはどう見るのだろうか。少なくとも、これまでの親鳥と雛というようなものではなくなるはずだ。友情にパワーバランスなどというものがあるとすればだが、案外それは今日から対等なものになるのか。
 栗生本人は、既にその想いを胸の内で風化させるつもりでいる。どれほどの重さならそれを恋と認定できるだろう? 昨晩の妙な雰囲気を作った張本人は、その記憶を微塵も感じさせない、いつも通りの笑顔で座っていた。
「栗生ちゃんさ?」
「な、なんだ?」
「だって、やってらんないじゃん。こういう世の中でしょ?」
なんの話をされているのかと、栗生が戸惑ううちに、真崎の笑顔はほんのちょっぴりだけ、妖しい色を帯びてみせた。
「人には簡単には話せないんだよ、僕らのこと」
「ん? ……ん?」
「将来、世界の常識が完全に変わって、その時になってもまだ僕のこと好きでいてくれるなら、そしたら、僕も考えてあげるよ」

「それまでは、今までと同じように僕は栗生ちゃんと一緒にいてあげるからね」